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山陽新報 明治、大正期の号外発見 勝央で5部、日露戦争など報じる

明治、大正期の山陽新報号外に目をやる遠藤さん
明治、大正期の山陽新報号外に目をやる遠藤さん
 山陽新報(山陽新聞の前身)が明治、大正期に発行した号外5部が、岡山県勝央町の遠藤昌澄さん(83)方で見つかった。日露戦争の講和会議や明治天皇崩御といったいずれも歴史的出来事を報じる内容。郷土史料に詳しい岡山市立中央図書館の飯島章仁学芸員は「先の大戦による戦災などで明治、大正期の新聞自体あまり残っていない。発行数の少ない号外はさらに珍しく貴重」と話している。

 最も古い記事は1905(明治38)年8月24日付で、日露戦争終結に向けた講和会議の速報。米ポーツマスで行われた講和会議では日本が戦闘に勝利しながらも賠償金獲得やサハリン(樺太)北半分の割譲を断念する結果となったが、号外は「両國(こく)の固執」と見出しを付け、賠償金などを巡って紛糾する日露交渉の経過を伝えている。9月7日付では講和内容に不満を募らせた民衆が東京で起こした日比谷焼き打ち事件を受け「一切の言論集會(かい)を緊束したり」と政府が発した戒厳令を報じている。

 明治天皇崩御を伝える12(同45)年7月30日付は「天皇登遐(とうか)」(登遐=天に昇るの意味)との見出しで崩御の日時や最期の容体を死因、医師団の名とともに掲載。同(大正元)年8月6日付で葬儀の内容や日時の決定を知らせている。日付不明ながら第1次世界大戦中の1914(同3)年に日本がドイツの東アジア拠点だった中国・青島を攻略したことを伝える紙面もある。

 号外は、遠藤さんが約20年前、奈義町の曽祖父力雄さん宅で発見し、ファイルにとじて保管していた。今年2月12日付本紙で、山陽新報が創刊された1879(明治12)年に近い時期の購読料金領収書を読者が保存している記事を読み、号外の存在を思い出したという。

 医師で地域の世話役も務めた力雄さんは山陽新報を愛読していたといい「社会の動きに深い関心を寄せ、印象に残った号外を大切に持っていたのだろう」と話している。

 いずれの号外も現在は山陽新聞社に残っておらず、遠藤さんが同社に寄贈した。

(2024年04月16日 20時15分 更新)

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