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姫新線久世駅で途中下車 早川代官の偉大な足跡に触れる

 早川八郎左衛門正紀(まさとし)は1787(天明7)年から1801(享和元)年まで美作国久世代官を勤め、吉岡鉱山(高梁市成羽町吹屋)の再興、吹屋ベンガラの発展などに偉大な足跡を残した。その早川代官の足元に寄り添ってみたいと思い、久世駅で下車した。

 吉岡鉱山は807(大同2)年、銀山として起こり1400年頃、銅山になったと伝えられている。その根拠は、吹屋の銅山経営者・大塚理右衛門(りえもん)が早川代官に差し出した1804(文化元)年の「吉岡銅山相続次第書上」で、そこには「大同二年之発山ニ而」、「銅山ニ相成四百年余ニ罷成申候」と記されている。早川代官は1788(天明8)年、備中を兼管して吹屋を訪れ、吉岡鉱山の荒廃ぶりを目の当たりにした。すぐさま大塚定次郎と兵十郎(後の理右衛門)父子に銅山再興への意見を求め、大塚父子が答申したのが「吉岡銅山相続次第書上」だ。吉岡鉱山はその後、早川代官と大塚理右衛門の努力で見事に復興する。

 吹屋ベンガラ(弁柄)はローハ(緑礬)から精製され、ローハは銅山の捨て石に混ざっていた磁硫鉄鉱石の表面に自然風化作用でつくられた。早川代官は1799(寛政11)年、ベンガラの品質を高め、流通価格を維持するためベンガラ仲間を組織させた。それ以降、吹屋のベンガラ産業は大きく発展し、江戸時代後期から大正時代にかけての最盛期を迎える。

 尼子家が支配した時代から江戸時代まで、吉岡鉱山を守ったのは大塚家だったが、その間には複数の鉱山師による経営時期があった。江戸時代には泉屋(後の住友)が2回稼業し、1873(明治6)年には三菱商会の岩崎弥太郎が経営者になった。泉屋はその後、愛媛県の別子銅山を開発し、三菱は長崎の高島炭鉱をはじめとする鉱山開発を本格化させた。つまり吉岡鉱山は住友と三菱、ふたつの財閥形成に大きく関わった金属鉱山だ。もしも早川代官が備中を兼管していなかったら、...
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(2024年04月01日 10時00分 更新)

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