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赤松良子さん死去 女性の地位向上に尽力

 男女雇用機会均等法の成立に尽力し、「均等法の母」と呼ばれた赤松良子さんが94年の生涯を閉じた。女性の社会進出や地位向上を進めた功績は大きい。

 父の麟作さんは津山市生まれの洋画家で、岡山にもゆかりがある。岡山県の依頼で行政アドバイザーを務めたこともある。本紙記事によれば1993年2月の会議に出席し、「(父が生まれた)津山市はいい町だが、東京や大阪にいるとそのよさが伝わってこない」などと述べている。

 大阪で生まれ、15歳で終戦を迎えた。自伝や過去のインタビューなどから赤松さんの人生をたどり、戦後の女性史を知ることは若い世代にとっても有意義だろう。

 「一生働き続けたい」という夢を持ち、勉強する赤松さんを応援したのは高知県出身の母だった。貧しさゆえに小学校さえ満足に通えなかった母の悔しさを、赤松さんは後になって気づいたという。

 津田塾専門学校で学び、戦後、女性に門戸を開いた東京大法学部に入学した。入学者800人中、女性はわずか4人。大卒女性の就職口はほとんどなく、国家公務員となって旧労働省に入った。

 「私の仕事の中で最も大きなもの」と赤松さん自身が評していたのが、婦人局長として制定に奔走した男女雇用機会均等法だ。戦後間もない47年にできた労働基準法で、男女差別を禁じたのは賃金のみだった。企業には、女性の結婚退職制や男女で異なる定年制などが残っていた。

 女性の権利を守る法律が必要だと決意したが、大臣ですら「女性は家庭に入るのが幸せ」という時代。赤松さんは反対する企業経営者を説得して回った。労使が激しく対立し、条文の多くは努力義務にとどまった。女性からも「生ぬるい」と批判を浴びた。

 ぎりぎりの交渉を経て85年5月に成立した均等法は翌86年4月に施行。総合職などで女性の採用が始まった。その後の改正で差別禁止規定も強化された。「内容が不十分でも、できた法律を育てればいい」。赤松さんが願った通り、均等法の成長とともに社会が変わっていったことは間違いない。

 退官後も女性の地位向上のために活動した。選挙の候補者の一定割合を女性に振り向ける「クオータ制」の導入を求める団体の代表も務め、遅れが目立つ政治分野を変えようと声を上げ続けた。

 世界経済フォーラムが発表した昨年の男女格差報告で、日本は146カ国中125位で過去最低の順位だった。格差解消が進む各国に比べ、政治、経済分野の遅れで日本が取り残される状況が続く。

 赤松さんは「男女平等の実現のための、長い列に加わる」という言葉を好んだ。先人が積み重ねてきた歩みに自分も加わり、次の世代に渡すことが大事だと。赤松さんが去り、バトンは今を生きる者たちに託されたといえよう。

(2024年02月09日 08時00分 更新)

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