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安政のコレラ禍伝える文書確認 岡山県立記録資料館 大庄屋ら団結

岡山でコレラが流行した様子を伝える上申書の写し。小西家をはじめ大庄屋7人の連名で書かれている
岡山でコレラが流行した様子を伝える上申書の写し。小西家をはじめ大庄屋7人の連名で書かれている
 幕末に岡山でコレラが流行した様子を伝える文書が2日までに、岡山県立記録資料館(岡山市北区南方)の所蔵資料から見つかった。大庄屋が岡山藩へ提出した上申書で、感染者が瞬く間に亡くなるなど逼迫(ひっぱく)した状況が記されている。大庄屋らは連名で、流行を鎮める祭礼の開催を願い出ており、現代のコロナ禍と同様、未知の疫病に団結して立ち向かう姿もうかがえる。

 江戸期の災害に詳しい倉地克直岡山大名誉教授らによると、世界的な大流行を受けて日本で最初にコレラが蔓延(まんえん)したのは1822年。次が安政年間の58年から4年間で、この時は長崎から一気に全国へ広がり、江戸だけで10万人が死亡したとされる。

 岡山での“安政のコレラ禍”の記述が確認されたのは、海面村(現岡山市中区海吉)の大庄屋小西家が、管轄する27村の状況などを書き留めた「諸書上帳(かきあげちょう)」。59年の旧暦8月に出した上申書の写しで、同6月下旬から被害が広がった様子を「疫病専(もっぱら)流行即死同様之(の)もの多分御座候(ござそうろう)ニ付(つき)一同相驚(あいおどろき)」と記す。

 農作業を止めて種々の祈祷(きとう)を行ったが、村々の空気が不穏になっていると報告。小西家と同じ上道郡の中井村(同区中井)、浦間村(同市東区浦間)などの大庄屋計7人が名を連ね、藩の倹約令で中止していた地域の祭礼を復活させてほしいと要望している。疫病の死者数も集計しており、同10月までに27村で計216人が亡くなっている。

 当時の岡山藩政記録に流行の記載は見当たらず、書上帳にもコレラの文言はないが、時期や死者数などから「この疫病がコレラであることは間違いない」と同館の近藤萌美専門員。同時期に備中松山藩を訪れた越後長岡藩士・河井継之助の日記には、岡山で前年からコレラが広がり、多くの死者が出ていると書かれている。

 「岡山でのコレラ流行の実態や、地域の対応が把握できる貴重な資料」と倉地名誉教授。近藤専門員は「疫病の怖さは今も昔も変わらない。今ほど医療が充実していない当時は、人々の不安は一層大きかっただろう」と話している。

 同日始まった所蔵資料展で初公開している。8月8日まで。

(2020年06月02日 21時36分 更新)

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