山陽新聞デジタル|さんデジ

ファンに感謝「幸せな競技人生」 シーガルズ川島と宮下 引退会見

引退会見を終え、すがすがしい表情で撮影に応じる川島亜依美(左)と宮下遥(右)。中央は河本昭義監督=岡山市
引退会見を終え、すがすがしい表情で撮影に応じる川島亜依美(左)と宮下遥(右)。中央は河本昭義監督=岡山市
 バレーボールV1女子、岡山シーガルズを主力として長年けん引してきた主将の川島亜依美(34)と副主将の宮下遥(29)が16日、岡山市内で引退の記者会見に臨んだ。最後の戦いとなった先の黒鷲旗全日本選抜大会で初の日本一に輝き、約15年に及ぶ現役生活の花道を飾った。支えてくれたファンや仲間への感謝を語り、ともに「幸せな競技人生だった」と爽やかに振り返った。

 ジャージー姿で登壇した川島と宮下は、時折笑顔を交え、すっきりした表情で思いを語った。

 九州文化学園高を卒業し2009年に入団した川島と、大阪国際大和田中在学中の同じ年に史上最年少の15歳2カ月でVリーグデビューした宮下。2人にとって最後の舞台となった今月の黒鷲旗で悲願の日本一にこぎ着けた。川島は「結束力を武器に戦うチームの良さを証明することができた」と喜び、宮下は「優勝の瞬間はうれしさと達成感、ほっとした気持ちが入り交じった」。

 引退は3年ほど前から頭の中にあったという川島は「V1リーグ、Vカップを終え、今までのシーズンとは違う思いがあり、決意した」とし、宮下は「今季で最後と思いながら取り組んできた。黒鷲旗を前にやり切ったという気持ちが固まり、決心した」と明かした。

 思い出の試合は数多い。川島は正式入団前に内定選手として出場した09年3月の試合を振り返り「サーブから交代で入り、バックアタックを打った。これが最初で最後のバックアタック」と笑う。宮下は16年のリオデジャネイロ五輪最終予選のタイ戦を挙げた。第5セット6―12の崖っぷちから逆転勝ちの立役者になり「どうやって勝ったか覚えていないほど、これ以上ないプレッシャーの中で五輪出場につなげられた」と思い起こした。

 ともに河本監督に才能を見いだされた。川島は高校では試合の経験がないものの13年に日本代表に初選出されるまでになり、宮下はリーグ歴代3位の333試合出場。宮下は「監督と出会ってなければ今の自分はない。いくら感謝しても足りない」と言う。川島は「Vリーグで戦うこと自体が夢みたいな時間だった。多くの支えでプレーでき幸せだった」としみじみと話した。

 ◇

 川島、宮下の一問一答は次の通り。

 ―現役を退く心境は。

 川島 ファンの皆さんの後押しで走り続けられた。多くの支えに感謝の気持ちでいっぱい。

 宮下 結果が出ず、心が折れそうな時もたくさんの「頑張れ」の声に支えられた。ここまで戦えたことが幸せ。

 ―引退をいつ決めた。

 川島 3年ほど前から頭の中にあった。悔いなく終えたいと思っていた中、今季のVリーグ、Vカップが終わり、今までと違う感情があった。

 宮下 数年前から引退は考えていたが、今季が始まる前に「この1年で最後にしよう」と決めた。全てやり切った思い。

 ―思い出の試合は。

 川島 入団内定選手だった時のデビュー戦(2009年3月)。高校で経験のない私をすぐに使ってもらい、うれしかった。20年のリーグ優勝決定戦も印象に残っている。JTに敗れたがチームの良さを出しながら戦い、一つの壁を越えた。

 宮下 いきなり前歯を折ったデビュー戦(09年11月)もそうだが、準優勝した13―14年シーズンのセミファイナルの久光戦が思い出深い。前日に私のミスで負け、絶対に勝たなければならない試合。何をやられても絶対に崩されないチーム力を出し勝つことができた。

 ―シーガルズに入り、トップ選手に成長した。

 川島 Vリーグで戦うこと自体が夢みたいな時間だった。シーガルズでなければ成長できなかったし、この年齢までプレーできなかった。

 宮下 小学生の時に河本監督に出会ってなければ今の自分はいない。多くの経験をさせてもらい感謝してもしきれない。

 ―第二の人生はどう考えている。

 川島 まだ何も決めていない。どの道に進んでもここで学んだこと、感じたことを大切にする。

 宮下 自分が自分らしくいられるのは何なのか、これから探していく。バレーに関わる何かができればいいかなと思う。

 ―後輩に贈る言葉を。

 川島 黒鷲旗の優勝でチームの強みを感じたと思う。大事にしてきた結束力、仲間を信じてやり抜くうちの良さを大切に前に突き進んでほしい。

 宮下 「つながり」が一番のチーム。それは選手同士だけではなく、応援してくださる地域の皆さんとのつながりがあってこそ。もっと愛されるチームになってほしい。

あなたにおすすめ


さんデジ特集

TOP