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片目視力失い杖で電車移動、駅で周囲のスピードについていけず…「どなたか席を譲ってくれませんか?」社会とのかかわり方

余命5年の宣告を受けたダースレイダー(写真右)
余命5年の宣告を受けたダースレイダー(写真右)
 若くして脳梗塞と糖尿病、腎不全を発症。片目の視力も失い、医師から余命5年の宣告を受けたラッパー・ダースレイダーが、人生をつづった書籍『イル・コミュニケーション ─余命5年のラッパーが病気を哲学する─』(ライフサイエンス出版)を刊行した。「病気とは、生きるとは何か?」を問う内容で、「自分自身について、人生について、社会について、世界について。僕は病気をしていなかったらこんなに考えることはなかっただろう」と振り返る。同書から、電車移動での生活で気づいた社会とのかかわり方についてつづった内容を、一部抜粋して紹介する。

【写真】「まず杖を購入した…」余命5年と宣告されたダースレイダー

■片目になって社会の視野が広がる

 退院してからも大変ではあった。夏真っ盛りの時期で、病院という快適空間から出てみると、歩くのがまだ困難だった。晴れ、雨と天気は変わり、室内、室外で気温が違うといった当たり前の環境に、でこぼこの道、行き交う車や人々がもたらすストレス。病院がいかに保護された場所だったのかを改めて知ることになる。病院内でのリハビリで「もう大丈夫だ!」と思い込んでいたが、現実の世界はこちらの都合に合わせて優しくはしてくれない。

 僕はまず杖を購入した。どうせならと、アフリカ風の装飾のついた木製のものやビリヤードの8ボールがついたもの、鷲の頭がデザインされたものを日替わりで持って歩くことにした。左目が見えなくなったことを周りに知らせるためにも、先述したように、友達に頼んで色々な生地で眼帯をつくってもらった。さらに、長期の入院で筋肉がとにかく落ちてしまい、腕や脚はガリガリだったが、自分に力を与えてくれるように派手な色の服を着て出歩くようにした。この時期は日常生活を送ること自体がリハビリになっていたように思う。出演できなくなったイベントに顔を出したり、友人の集まりに参加したりする。ぐいっと力を込めて歩き出し、ふわっと周りに身を委ねる。その繰り返しだ。

 こうして社会の中に身を投げ出してみると、それまでとは異なった光景が見えてくる。新宿駅は中学の頃から通学で利用していたが、京王線からJRに乗り換える通路は、階段を降りて通路を抜けてからまた階段を上がる。毎日人が波の如く行き交う中に自分も紛れて進んでいたのだが、病気になってからは、この波に入れなくなってしまった。動きが速過ぎるのだ。歩いている人々は、それぞれツカツカと進んでいくそのスピードがとにかく速い。その歩調に合わせられないと、すぐに人がやってきてしまう。しかも、左目の視野が遮られているので、油断していると、次々と人にぶつかってしまう。僕は通路の真ん中で軽いパニックになり、慌てて壁際に避難した。そんな僕にはお構いなしに通路の中央を人が怒濤の如く流れていく。

 すると、壁際で膝に手をつき、一息ついていて気づいた。実は僕以外にも中央の人の流れの速さについていけずに、壁際をゆっくり歩いている人たちがいたのだ。高齢だったり、怪我をしていたり、あるいは、僕のように病気を持っているのかもしれない。中央の人の流れに飲み込まれないようにしながら、なんとか自分のペースで歩いたり、止まったりしている人たち。僕は自分が中央の人の流れに合わせて歩いていた時には、こうしたゆっくり歩く人々に全く気づいていなかった。もしかしたら、目の前に現れた時には、邪魔にすら思っていたかもしれない。だが、自分が病気になって、社会の構造の外に出てみて初めて、様々な速度、あり方が同じ空間に存在していたことが分かったのだ。片目になって視野が広がった。

 僕は病気になるまでは車を運転していたが、左目の視野を失ってからは、電車移動がメインになった。退院後、しばらくは杖をついてふらつきながら電車に乗っていたのだが、驚くほどに席を譲られる機会がなかった。すぐ疲れてしまうので、杖に寄りかかってゼエゼエ言っていても、周囲は素知らぬ顔をする人ばかり。先述したように僕は杖もあえて派手にしていたし、眼帯も派手だ。でも、明らかにふらついて杖に寄り掛かってもいた。ある時はかなりしんどいので、優先席の前まで行ったが、誰も立とうとしない。時間帯は19時過ぎで、仕事帰りの人でごった返し、人の圧力に押され気持ち悪くなってきた僕はぐらついて倒れそうになってしまった。横で立っていた方が心配して手を貸してくれたが、それでも優先席に座っている仕事帰りと思しき人たちは、一人も顔を上げることすらしなかった。一心不乱にスマートフォンの画面を見つめていたり、寝ていたり。こうした経験から僕はしんどい時は声を掛けるようになった。

 「すみません。今ちょっと疲れているのでどなたか席を譲ってくれませんか?」

 声を出すと、流石に席を譲ってくれる人も出てきた。「そんなにしんどいなら外に出てくるな!」「病人は家で休んでいろ!」という意見を持つ人もいるだろう。でも、僕は移動したいし、行き先もある。いや、行き先が明確になくても誰でも移動する自由はある。移動できないくらいしんどかったら、自分で判断して休むだろう。この時期の僕は少し休めば動けるくらいの状態だった。そもそも幼少期のロンドンでの経験などから、僕は電車の椅子はすべてが“優先席”だと思っていたが、日本ではわざわざ指定しないと誰も他人を優先しない。ただ、優先席と指定してしまうと、その場所以外は優先しなくてよい席だと考えてしまう人もいるのではないか。

 社会には色々な人がいて、それぞれの速度で、やり方で生きている。公共交通機関の「公共」に、その色々な人を包摂するという意味を持たせてもよいのではないか。日本社会には“公=パブリック”という概念が欠如している。公園や広場といったパブリックスペースは、欧州では「みんなのもの」と考えられるが、日本では誰のものでもない場所だ。そして、行政からの禁止事項だけがずらりと並ぶ。僕は日本が民主主義という看板を出しているだけで民主主義社会ではない、と考えている。それは「民が主になっていない」からだ。民が主になってみんなのものとして社会をつくっていく。その意識がない社会は民主主義社会とは言えない。

 バリアフリーの議論でも、障害のある人のためにスロープやエレベーターを設置するのはもちろん大事なことだ。だが、そうした設備だけ整えればよいという問題ではない。僕が幼少時に住んでいたロンドンの地下鉄は古い螺旋階段だらけだ。ただ、その場所に車椅子に乗った人やベビーカー、大きな荷物を持った人が来れば、周りの人たちがパッと集まって昇り降りを手伝う。同じくロンドンの空港のエスカレーターでは、日本と同じ感覚で急いで昇っていたところ、職員の方から「急いでいる人は階段を使ってください。エスカレーターは速く歩けない、あるいは階段を使うのが難しい人のためのものですよ!」と言われてハッとしたことがある。こうした考え方がみんなの場所をつくるということであり、それをテクノロジーでサポートしているのがスロープやエレベーターだ。みんなの場所をそれぞれが個として関わって、つくっていく意識がなければ、設備だけ整えても、優先席を指定しても、本質は変わらない。

■プロフィール
ダースレイダー/1977年、フランス・パリ生まれ。ロンドン育ち、東京大学中退。ミュージシャン、ラッパー。吉田正樹事務所所属。2010年に脳梗塞で倒れ、合併症で左目を失明。以後は眼帯がトレードマークに。バンド、ベーソンズのボーカル。オリジナル眼帯ブランドO.G.Kを手がけ、自身のYouTubeチャンネルから宮台真司、神保哲生、プチ鹿島、町山智浩らを迎えたトーク番組を配信している。著書『武器としてのヒップホップ』(幻冬舎)『MCバトル史から読み解く日本語ラップ入門』(KADOKAWA)など。2023年、映画「劇場版センキョナンデス」「シン・ちむどんどん」(プチ鹿島と共同監督)公開。

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