山陽新聞デジタル|さんデジ

肩の荷下ろしマラソンと向き合う 武冨・天満屋監督が退任会見

勇退を決意し、後任の山口衛里ヘッドコーチと握手を交わす天満屋女子陸上部の武冨豊監督(右)=岡山市
勇退を決意し、後任の山口衛里ヘッドコーチと握手を交わす天満屋女子陸上部の武冨豊監督(右)=岡山市
 今月限りでの退任が発表された天満屋女子陸上部の武冨豊監督(70)と後任の山口衛里ヘッドコーチ(51)が27日、岡山市内で記者会見した。武冨氏は「70歳を機に交代することは数年前から考えていた。監督業という肩の荷を下ろし、(今後は専任コーチとして)改めてマラソンと向き合いたい」と決断の経緯を説明した。山口氏は「個々の力を最大限に引き出す武冨監督の指導を継承し、地域や応援してくれる方から認められるチームづくりを目指す」と抱負を述べた。

 穏やかな表情で会見に臨んだ武冨氏は、1992年8月のヘッドコーチ就任当時を振り返り「国内トップ選手と比べると、競技に対する意識に大きなギャップがあった。世界に通用するチームをつくるため、そこをどう変えるかということをやってきた」と話した。

 卓越した手腕で五輪通算6大会にマラソン代表を輩出し、今夏のパリでは前田穂南(27)が2大会連続の大舞台に挑む。「2度目ということで彼女本来の力を出せると思う。パリでしっかりと結果を残せるように取り組んでいく」と衰えぬ意欲を示した。

 山口氏は「プレッシャーはあるが、チームとして駅伝で活躍することと、日の丸を付ける選手を育成することを掲げてレベルアップしていきたい」。やや緊張した面持ちで重責を担う決意を口にした。

 ◇

 ともに名門の礎を築いてきた師から弟子へとバトンは託された。今月限りで退任する天満屋女子陸上部の武冨豊監督(70)と後任の山口衛里ヘッドコーチ(51)が27日、岡山市内で記者会見に臨み、勇退を決めた経緯や指揮を引き継ぐ覚悟を語った。

 ―新年度からの監督交代が発表された。

 武冨 70歳を迎えるということで、2年ほど前からタイミングを考えていた。山口は現役当時からいろんな形で私の活動を見てきており、何の心配もなく任せられる。この機が一番と判断した。

 山口 私が五輪出場の夢をかなえられたのは武冨監督の指導があってこそ。重圧は大きいが、選手一人一人と向き合って力を最大限に引き出す指導を継承し、チームの歴史を次につないでいきたい。

 ―武冨氏は今後、マラソンを中心に携わる専任コーチに就く。

 武冨 監督よりもコーチとして、選手と現場で長い時間を共にしたい思いはずっとあった。今夏のパリ五輪で結果を残すため、改めてマラソンと向き合いたい。代表の前田(穂南)が不安なく、本来の力を発揮できるよう全力を尽くす。

 ―指導者人生で印象に残っていることは。

 武冨 一番思い出深いのは、天満屋入社当時に感じたトップ選手との意識の差だ。世界に通用するチームをつくるため、そこをどう変えていくかということに懸命に取り組んできた。

 ―山口氏は新指揮官としてどんなチームづくりを目指すのか。

 山口 全日本実業団対抗駅伝での活躍と、日の丸を付ける選手を一人でも多く育成することを掲げ、地域や応援してくれる方から認められるチームにしていきたい。
 
 たけとみ・ゆたか 佐賀県出身。神戸製鋼での現役当時はマラソンで活躍し、1980年別府大分毎日で優勝した。天満屋女子陸上部創部1年目の92年8月にヘッドコーチに就任し、96年から監督(2013年から4年間は総監督)。2000年シドニーの山口衛里を皮切りに今夏のパリで2大会連続の五輪に挑む前田穂南まで、五輪通算6大会に女子マラソン代表を送り出した。日本陸連女子長距離・マラソン部長なども歴任した。

 やまぐち・えり 兵庫県出身。西脇工高からダイエーを経て1993年に天満屋入りし、98年の北海道でマラソン初優勝。99年の東京国際女子を当時世界歴代6位の2時間22分12秒で制し、代表に選ばれた翌年のシドニー五輪で7位入賞した。2005年の引退後は07~11年に天満屋コーチを務め、10年には岡山県チームの監督として全国都道府県対抗女子駅伝で初優勝に導いた。20年に天満屋コーチに復帰し、22年からヘッドコーチ。

あなたにおすすめ


さんデジ特集

TOP