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アダムスの手紙など400点発見 岡山博愛会創始者、母国の米国で

アダムスが米国の親しい人に送った手紙の一部。右上付近に1892年5月15日の日付があり、枠外の文字は紙幅が足りず追伸を記したとみられる(サバス教授提供)
アダムスが米国の親しい人に送った手紙の一部。右上付近に1892年5月15日の日付があり、枠外の文字は紙幅が足りず追伸を記したとみられる(サバス教授提供)
アリス・ペティー・アダムス(岡山博愛会提供)
アリス・ペティー・アダムス(岡山博愛会提供)
米国で発見されたアダムスに関する資料。直筆の手紙、写真、花器などがある(サバス教授提供)
米国で発見されたアダムスに関する資料。直筆の手紙、写真、花器などがある(サバス教授提供)
米国で見つかった着物姿のアダムス(右)の写真。岡山での活動仲間と一緒に写ったとみられる(サバス美苗教授提供)
米国で見つかった着物姿のアダムス(右)の写真。岡山での活動仲間と一緒に写ったとみられる(サバス美苗教授提供)
アダムスの手紙など400点発見 岡山博愛会創始者、母国の米国で
 明治から昭和初期にかけて岡山市で貧困者の救済に生涯をささげた岡山博愛会の創始者アリス・ペティー・アダムス(1866~1937年)の直筆の手紙や日記、写真など約400点が母国の米国で見つかったことが6日、分かった。貧困地域に住んで医療や教育の社会事業を興す「セツルメント」を日本で初めて本格的に行ったとされる先駆者だが、資料が本人の意思で処分などされて少なく、専門家は「地域福祉に大きな影響を与えた彼女の活動や人物像を解き明かす上で極めて貴重だ」としている。

 アダムスの弟の孫に当たる女性が米国で保管し、昨年、アダムスの母校のマサチューセッツ州・ブリッジウォーター州立大に寄贈。同大で調査するサバス美苗教授(58)によると、直筆の手紙300通以上をはじめ、日記1冊、日本から持ち帰ったとみられる自身の写真や花器もあった。

 アダムスは20代半ばで宣教師として来日し、岡山博愛会を発足。当時「花畑」と呼ばれた岡山市街地東端の地域に住み込み、学校に行けない子どものための小学校、医療を提供する施療所、幼稚園などを開設した。ただ、外国人の活動ということもあって当初はなかなか理解が得られず、資金難に直面したほか、子どもを働かせていた親が「学校に通わせて稼ぎがなくなった」と訴えてくるなど事業は困難を極めたという。

 手紙からもそれがうかがえる。来日翌年の1892年5月15日の日付が入った「親愛なる故郷の友人へ」と題した手紙には〈かなり苦戦しています〉と記述。学校運営について〈反発心を抱いている人が多くいます〉〈あぁ! この国のモラルは〉〈落ち込むことばかり〉と嘆きつつ〈やることは多くあり、少しずつやっていくしかありません〉と決意をしたためている。

 日記は1934年から病で帰米する36年までの日付。アダムスは事業のために日頃から倹約を徹底し、彼女の伝記を書きたいと申し出た岡山博愛会の関係者にも「他の有効なことに費やして」と数十冊あった日記を焼却したとされる。今回見つかったのは米国へ持ち帰った日記と考えられる。

 サバス教授は旧知の吉利宗久・岡山大教授(49)らと共に今夏、岡山市の岡山博愛会本部を訪ねるなど調査・研究を進めており「彼女の実像に迫り、広く伝えたい」と話している。

 アリス・ペティー・アダムス 米ニューハンプシャー州生まれ。教員などを経て、日本にいた親族の宣教師の誘いで1891年に来日。私立花畑尋常小学校や施療所、幼稚園、裁縫学校を運営するなど貧困者の救済事業を広く行った。藍綬褒章、勲六等瑞宝章を受章。

 セツルメント 貧困や失業問題を抱える地域に支援者が住み込み、社会を変えていくために行った事業。岡山はパイオニアを多く輩出し、日本初の孤児院をつくり、児童福祉の父と呼ばれた石井十次、「社会鍋」と呼ばれる歳末募金や廃娼運動などを行った日本救世軍の創始者・山室軍平らがいる。戦後は法の整備や貧困地域の減少でセツルメントは次第に減っていったが、地域福祉の源流ともなった。

 杉山博昭ノートルダム清心女子大教授(社会福祉史)の話 アダムス自らが書き残した資料は非常に珍しく「大発見」ではないか。今では当たり前となった地域福祉を日本で先駆けて進め、社会に浸透、定着させた業績の大きさに反し、アダムス個人に焦点を当てた研究は進んでこなかった。人柄や活動への思い、つながりのあった人々、当時の岡山における福祉の実情などが明らかになることを期待したい。

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 米国で自筆の手紙や日記が確認されたアリス・ペティー・アダムスは、同時代に孤児救済で大きな足跡を残した石井十次らとともに「岡山の四聖人」と呼ばれる。一方で資料の少なさから十分光が当たってこなかったといい、関係者は顕彰が進むことを期待する。

 「アダムス自身が書いたものはほとんど残っていないだけに驚いた」

 岡山博愛会(岡山市)の更井哲夫理事長(75)はそう話す。父の良夫さん(1908~2000年)がアダムスから事業を受け継ぎ、現在は病院や高齢者施設、保育園などの事業を行っている。

 アダムスは、来日した1891年に子どもたちを集めてクリスマス会を開いたのを機に日曜学校を開校。後に私立の尋常小学校へ発展させ、子どもたちに学用品を与え、無料の給食も始めた。施療所では自らも看護師資格を取得して働き、運営を支えた。

 更井理事長によると、アダムスは運営資金を工面するため、自らが食べる野菜や魚は鮮度が落ちて売れ残った安いものを買うなど倹約を徹底した。英語教師として働いた給料も事業につぎ込んだという。

 苦境でも気丈に振る舞っていたと伝わるが、米ブリッジウォーター州立大でアダムスの手紙や日記の資料整理を担う図書館司書オーソン・キングスレイさん(40)は「手紙には活動への不安や異国での寂しさを率直に吐露する箇所がある」と指摘。〈家族以外には誰にも言わないで〉と念を押す記述もあり「親しい人だけに本音を打ち明けたのだろう」と推察する。

 「岡山の四聖人」はアダムス、十次、日本救世軍を率いた山室軍平、非行少年を受け入れる学校をつくった留岡幸助―とされるが、アダムスは他の3人に比べ資料に乏しく研究も少ないという。今回見つかった資料の共同研究者となる吉利宗久・岡山大教授(49)は「アダムスは超人ではなく、苦悩や葛藤も抱えた一人の人間だった。研究が進めば、社会をより良くするために私たちがどう行動すべきか重要な示唆を得られるのでは」と話す。

(2023年09月07日 05時10分 更新)

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