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AIでよみがえる戦後の岡山

終戦後の昭和20、30年代を中心に撮影したモノクロの報道写真が、人工知能(AI)技術の力で色鮮やかによみがえった。東京大大学院の渡邉英徳教授との共同プロジェクト。地元関係者らの証言や資料をもとに色の補正も行い、“あのころ”の風景に近づけた。時代は平成から令和へ。さらに遠のく昭和の年代に敗戦の焦土から復興を遂げていく郷土の姿が、半世紀以上の時を超えて再現された。

空襲後の岡山市中心部(昭和20年夏)
 1945(昭和20)年6月29日未明、米B29爆撃機138機が岡山市上空に来襲し、焼夷(しょうい)弾約9万5千発を投下。市街地の約6割が焦土と化し、市史によると1737人が亡くなった。
 写真は天満屋付近から北方向を捉えており、岡山空襲展示室(同市北区駅元町)の猪原千恵学芸員は「空襲から約1カ月後の終戦前に撮影されたとみられる貴重なカット」と評価する。右上に内山下国民学校や岡山城西手櫓、禁酒会館が焼け残っているほかは、旧日本勧業銀行岡山支店の建物(中央奥)などを残して一面、焼け野原。行き交う人々の絶望が伝わってくるようだ。
皇太子時代に陛下が初来岡(昭和24年4月2日)
 初々しさを残しつつも、すっと背筋を伸ばしたたたずまいからは気品が漂う。学生服姿で写真左に立つのは、皇太子時代の天皇陛下。1949(昭和24年)4月2~4日、初めて岡山県を訪問された際のひとこまだ。
 4月末の退位を控えた陛下も当時は15歳。学習院中等科卒業後の春休みを利用し、岡山、広島県など山陽路を巡った。岡山滞在初日には岡山市でセレモニーがあり、地元生徒代表が歓迎あいさつを述べた。その一人、ノートルダム清心女子大名誉教授の氏平一郎さん(85)=同市中区門田本町、写真中央=は「岡山は初めてですから、ゆっくり見たいと思います」と丁寧に返されたことを鮮明に覚えているという。
岡山・下之町の誓文払い(昭和25年11月)
 よそ行き姿の人々が闊歩(かっぽ)するのは、岡山市表町商店街の中心部・下之町地区。秋恒例の誓文払いに岡山県内外から買い物客が押し寄せ、通りを埋め尽くした。
 空襲の痛手を負い、バラックや露店から再出発した同商店街。街を挙げた懸命の復興で、終戦翌年に誓文払いを復活させた。1950(昭和25)年の撮影時点では店構えも立派になったことも見て取れる。現在も続く家業の刃物店を手伝っていた高橋俊江さん(82)は「通りは石けりなどの子どもの遊び場だったが、大売り出しの時は今では考えられないほどにぎわった」と懐かしむ。
日米野球で歴史的勝利(昭和26年11月13日)
 日米親善野球の全米選抜-全パシフィックが1951(昭和26)年11月13日、完成したばかりの岡山県営球場で行われた。劣勢が予想された全パが3-1で全米選抜を振り切り、日米プロチーム同士の対戦35試合目で初めて、日本側が勝利をつかんだ。
 全米選抜はこの年のアメリカン・リーグ得点王ドム・ディマジオ(写真中央)、49年の同リーグ最優秀投手メル・パーネルらを擁するスター軍団。全パは3回までに3点を挙げると、4回以降は細かな継投で逃げ切った。歴史的勝利の“証人”となった岡山の野球ファンらは歓喜に沸き、グラウンドになだれ込んだ。
将棋の大山名人誕生(昭和27年7月)
 倉敷市出身の将棋棋士・大山康晴九段は1952(昭和27)年の第11期名人戦で、木村義雄名人を4勝1敗で下し、初の名人位に就いた。48、50年に続く挑戦で成し遂げた“三度目の正直”。同タイトルの箱根越えは史上初で、本紙は「関西棋界の宿願遂に成る」の大見出しで報じた。
 名人18期を含めタイトル80期を獲得した強さとともに「穏やかな人柄で誰からも愛された。郷土の誇りです」と倉敷市大山名人記念館(同市中央)の北村実館長(85)。92年に亡くなるまでに積み上げた通算勝利数1433は、今も破られていない大記録だ。
映画「君の名は」に大行列(昭和28年9月)
 岡山市・表町商店街の最南端に位置する千日前地区。1912(明治45)年に最初の映画館が開館し、戦前には4館が並ぶ“映画街”として発展した。
 戦後、娯楽の中心として映画人気が拡大。53(昭和28)年9月15日に第一部が公開された「君の名は」は、戦時下の東京・数寄屋橋で再会を誓った男女のすれ違いの物語が描かれ、千日前にも女性を中心に長蛇の列ができた。「真知子巻き」もブームになった。同地区の映画館は80年代に7館に達したが、平成に入り相次いで閉館。アーケード内の電灯看板が、その名残を今に伝えている。
「きんぎょー、きんぎょー」(昭和29年3月)
 てんびん棒に桶(おけ)を提げ、岡山市中心部の京橋を歩く金魚売りの一行。「きんぎょー、きんぎょー」の声が聞こえてきそうだ。
 夏の季語でもある「金魚売」。その姿は、江戸時代後期から昭和40年頃にかけて初夏の風物詩だった。ただ、この写真が撮影されたのは、当時は写真奥に花街があり、売り上げが期待できるため早い時期から行商に来ていたとされる。当時12歳だった奥野邦子さん(77)=岡山市中区西中島町=は「金魚の値段は覚えていないけれど、安くはなかった。買ってもらえる子どもは少なかった」という。
ジャージー牛がやって来た(昭和29年10月28日)
 コメ、大根とともに岡山県蒜山地域の「三白」と呼ばれるジャージー牛乳は、乳脂肪分が豊富で味が濃厚。ヨーグルトやチーズなどの加工品も人気が高い。その生みの親となる牛の品種「ジャージー」が県内に導入されたのは1954(昭和29)年10月28日。第1陣として約100頭が到着し、久世駅では地元の小学生や飼育農家、農協関係者らが笑顔で出迎えた。
 2017年6月末現在の県内飼育数は2317頭で、北海道(3459頭)に次ぐ全国2位。北海道は産地が分散しているため、蒜山地域が“日本一の産地”とも言われる。
ふんどし姿で海水浴(昭和31年7月22日)
 夏空を映した水色の海が映える。1956(昭和31)年7月22日、夏休み最初の日曜でもあり、玉野市の渋川海水浴場は子どもたちが詰め掛けた。目を凝らすと、ふんどし姿の男児が多いことに気づかされる。
 「広島、岡山などから貸切バス四十数台をはじめ船三隻で団体学生、一般客などが押しかけ…」。翌23日付の本紙朝刊は盛況ぶりをこう伝えた。この日の海水浴客は2万5千人。今ではレジャーの多様化などが響き、ワンシーズンでも5万~6万人にとどまっている。
お座敷へ向かう芸者さん(昭和32年6月)
 街灯に明かりがともる頃、お迎えの車に乗り込むのは2人の芸者さん。岡山市中心部の内山下地区にあった置き屋から、料理店や割烹などのお座敷に向かう姿を1957(昭和32)年6月7日に捉えたものだ。
 日本舞踊協会岡山県支部長の若柳吉芳也さん(84)=同市中区小橋町=によると、当時は市内に約50人の芸者が活躍していた。「良き時代だった。三味線や唄、舞踊といった日本の伝統文化を支えてきたという自負もある」。芸事に理解のあるだんな衆が減り、岡山の芸者さんは今や若柳さんら3人が残るだけだ。
岡山駅前に並ぶタクシー(昭和33年9月)
 トヨペット・クラウン、ダットサン110型系、いすゞヒルマンミンクス…。岡山駅前に“クラシックカー”がずらり。1958(昭和33)年9月6日に撮影されたタクシーの列だ。
 当時は白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」。自家用車はまだ一般的ではなかった。当時、岡山県内には約800台のタクシーがあり、「昭和20年代後半までは人力車が並んでいたが、一気に入れ替わった」と県タクシー協会長の梶川政文さん(78)。「スピードの出し過ぎによる事故が多かったと聞いている。ただ懐かしむだけでなく、安全第一を胸に刻む1枚」
華やかに国体開会式(昭和37年10月21日)
 1962(昭和37)年10月21日。前夜の雨模様から一転、晴れ渡った秋空の下、岡山国体秋季大会の開会式が岡山県営陸上競技場(岡山市)で開かれた。
 北海道から沖縄までの選手団に続き、岡山県選手団がしんがりで入場。多彩に繰り広げられた公開演技では、「岡山」の人文字に歓声が上がった。当時、市立三勲小6年生だった熱田義明さん(68)=同市中区関=は「数カ月前から市内の全小中学生が週2回ほど集まってマスゲームの練習をした。国体の意味はよく分かっていなかったが、大勢で何かを表現する喜びがあった」と言う。
東京五輪聖火リレー(昭和39年9月21日)
 日の丸の小旗が振られる中、トーチを掲げた少女が岡山市の目抜き通りを駆け抜けていく。1964(昭和39)年9月21日に岡山県入りした東京五輪聖火リレー。戦後復興を象徴する“平和の火”は、行く先々で熱烈な歓声に迎えられた。
 香川県から海を渡り、玉野市・宇野港に到着した聖火は、地元若手アスリートらのリレーで岡山県庁へ。「沿道はものすごい人。緊張と高揚感の中、とにかくちゃんと走らなきゃ、と」と思い返すのは、この日の最終ランナー柳川宏美さん(72)=岡山市中区土田。約3万人が詰め掛けた県庁前での到着式で熱気は最高潮に。リレーは23日再開し、備前市・船坂峠で兵庫県に引き継がれた。
「記憶の継承」に一役 東京大大学院・渡邉英徳教授に聞く
モノクロ写真のカラー化に先駆的に取り組んできた渡邉英徳東京大大学院教授に、その意義や狙いを聞いた。

 2010年頃から長崎、広島の戦災関連写真と被爆者の証言をネット上で公開してきた。だが、モノクロ写真はあまり見られない。世代が若くなるほど「自分とは関係ない時代の記録」と捉えてしまうからだ。

 16年10月、原爆投下後の広島の写真を独自にカラー化した。想像以上の出来栄えに、強い可能性を感じた。SNSに投稿すると大きな反響を呼び、本格的に取り組むようになった。

 空襲で燃え上がる街は、モノクロだと凍り付いたように見えたが、着色すると炎や煙が生々しく溶け出してきた。当時を知るお年寄りの記憶を呼び起こすきっかけになるし、若者たちは今日の出来事のように身近に感じてくれる。その結果、モノクロ写真の中の風景が多くの人々の心に残っていく。

 AIは万能ではなく、中でも人工物の着色が苦手。人の力で補色しなければならないが、裏付けのない創作は行わない。それが僕のポリシーだ。

 今回の山陽新聞社とのプロジェクトも、過去の出来事と日常を“地続き”にする意義は大きい。カラー化した写真が、年代を超えたコミュニケーションや対話を生み、「記憶の継承」が進むよう期待している。

カラー化の作業手順
山陽新聞社の膨大なストックから、モノクロ写真約50枚をカラー化候補として抽出。この中から「戦後岡山の復興と人々の暮らし」のテーマで吟味し、13枚に絞り込んだ。
東京大大学院の渡邉英徳教授による着色作業の第一段階。早稲田大理工学術院の石川博教授らが開発したAI技術を活用した。AIは同じ被写体を写したモノクロ、カラー写真230万組から色の関係を学習しており、自動で色が付けられていく。
AIが十分に色付けできなかった被写体の色を探るため、記者が現地を取材。撮影当時の様子を知る関係者らの声を聞いたり、当時の資料を探したりした。元の色が分かれば渡邊教授に報告し、色補正を加えてもらった。
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