山陽新聞デジタル|さんデジ

日中戦争記録「銃後赤心譜」発見 和気の住宅、合同新聞2万号記念

合同新聞の創刊2万号を記念した書籍「支那事変 銃後赤心譜」
合同新聞の創刊2万号を記念した書籍「支那事変 銃後赤心譜」
 山陽新聞の前身に当たる合同新聞の創刊2万号を記念した書籍「支那事変 銃後赤心譜」が、岡山県和気町の住宅から見つかった。発行は1939(昭和14)年。日中戦争の発端から経過、戦況を記事と写真、戦局地図などを使って詳細に記録している。約50の地方紙が協力して集めた“銃後の美談”も収録。本格的戦時体制が確立され、太平洋戦争へと進んでいった時代を省みる資料として貴重といえそうだ。

 「支那事変 銃後赤心譜」は縦23センチ、横31センチ、厚さ約6センチ。紺色の表紙に金文字でタイトルを、銀で「貳萬號記念 合同新聞社發行」と記してある。純和風のとじ本で、損傷を防ぐための帙(ちつ)で本を覆う豪華な作りとなっている。

 内容は、陸軍と海軍の戦史に始まり、各地の戦況と行軍の様子を落とした地図、勅語や津山市出身の平沼騏一郎首相(1867~1952年)の文章なども収録した。25ページに及ぶ写真グラフもあり、中には岡山出身者を集めた「武勲薫る吾が郷土部隊」という題の写真も見られる。

 後半は、全国約50社が協力して執筆した「報国美談編」をまとめた。中国・四国、関東、中部、近畿、九州、奥羽、北海道と、地方ごとに集約し、中国四国地方99ページのうち28ページが岡山県で、合同新聞が担当した。

 少年たちが自らの血で描いた日章旗を手に「小さくてまだ戦争に行けない私たちの分まで頑張って」と負傷した兵士を励ました話や、息子の戦死を知らせる電報を受け取った母が「せがれよくやっておくれだった」と褒めたたえたことなど49の話題が掲載されており、いずれの記事からも国を挙げて戦争へ突き進む時勢と、それを肯定する姿勢がにじむ。

 書籍は、高岡建設工業(岡山市中区古京町)の内山隆義社長(80)が1月に和気町(旧佐伯町)の実家のたんすで見つけた。内山社長の父忠直さんは当事、旧満州(現中国東北部)の鞍山製鉄所の仕事に携わっており、その際、入手して実家に持ち帰ったとみられる。忠直さんは終戦間際に召集され、シベリア抑留を経験し、終戦から2、3年後に帰国したという。

 合同新聞によると、1938(昭和13)年8月29日で創刊2万号を迎えることから、16日付で記念事業の社告を掲載。戦死者の忠霊塔建設、県内青年団代表者の伊勢神宮祈願団派遣、記念美術大展覧会開催と並び「支那事変 銃後赤心譜」の発行が記されている。山陽新聞140年史には39年7月3日の項目に<2万号記念で日中戦争の銃後赤心譜出版。本社と全国50新聞人執筆。25円>とあり、今の価値では1万円を優に超える金額だったことが分かる。

 県内では県立図書館のほか、倉敷、真庭市、勝央町の図書館で所蔵。山陽新聞社には岡山空襲で社屋を焼失したこともあってか残っていない。同じ内容の書籍は新潟や長崎県などでも作られていたようだ。

 戦時中の少女の日記や母への手紙などを調査し、当時の資料に詳しい前県立記録資料館特別館長の定兼学さん(66)は「国に尽くす人々を慈しむ気持ちから、このような豪華な書籍に仕上げたともいえる。形として残すことに意味がある。80年たった今も戦争が起きている。現代こそ手に取って、自分のこととして考えてみる意義があるのではないか」と話していた。

(2023年05月11日 22時11分 更新)

あなたにおすすめ

ページトップへ