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麥田俊一の偏愛的モード私観 第19話「アンダーカバー」

 「アンダーカバー」2020~21年秋冬メンズコレクショ (C) UNDER COVER
 「アンダーカバー」2020~21年秋冬メンズコレクショ (C) UNDER COVER
 8月下旬の昼時。人も猫も古池の蜻蛉さえも、生物の凡ゆるものが喘ぎ、果ては倦怠に落ち込む。今日もまた、そんな激しい暑さである。此処、陋居のあるY市の丘でもそうした暑さは東京と変わらない。と云うよりも、幾らかなりとも緑が茂っているせいか、庭の樹々より降るようにヂーヂーと油蝉の鳴く声が却ってじっとりと汗を呼ぶようにも感ぜられて、さながら溶鉛の沼にも似た、蒸せるが如き静寂さが遣る瀬ない。煙草を咥え朦朧とした私の眼が書架に向く。束となったポケミス(ハヤカワ・ポケット・ミステリー)の塊が収まり切れずに平置きになっている。電子書籍ばやりの今となっては、文庫本ならばともかく、新書判などは見向きもされないのだろうが、学生時代より古書肆で買い漁って蒐集した名残(当時はAmazonのような便利なものはなかった)が今は暑苦しい。ふと「87分署」シリーズに眼がいく。エド・マクベイン名義なら「ホープ弁護士」シリーズを合わせると63冊を蔵しているが、その中でも「87分署」シリーズの「キングの身代金」に眼が止まる。製靴会社の重役ダグラス・キングの屋敷が立つ丘を舞台に据え、誘拐事件(犯人は誤ってキングの息子ではなく、お抱え運転手の息子を誘拐してしまうのだが)を巡る攻防を筋立てに、刑事たちではなくキングを中心に物語を描いた画期的な一作である。暑気でぼんやりとしているが、私の意識はファンタジーに縋り付いていたようである。

 黒澤明監督の映画「天国と地獄」は、マクベインの「キングの身代金」を、戦後の日本を舞台に置き換え翻案したものだ。私は映画に疎い方だが、巨匠の作品の中で「どですかでん」(こちらは山本周五郎の「季節のない街」が原作)と同じくらい好きな映画である。そのロケ地になったK町やH町界隈は、若い時分より身に付いた宿痾、つまり、悪所を素見(ひやかし)ながら蹣跚する私のホームグラウンドであることからも一層馴染みが深い。そんなことから(遊蕩の記憶ではなく映画のこと)、と云うか、マクベインの警察小説から「アンダーカバー」を連想する人間はまずいないだろう。口はばったいことは云えやしないのだけれど、このあたりが私の特異なファンタジー気質と云うものだ。

 「アンダーカバー」は、今年1月のパリメンズコレクションにて黒澤監督の作品に想を得たショーを発表している。題材になったのは「蜘蛛巣城」だった。デザイナーの高橋盾(じゅん)が黒澤作品の熱烈な信奉者であることは、以前より取材で知っていたし、それに纏わる挿話は後述するけれど、戦国時代をモダンにアレンジした凝った舞台造作とコンテンポラリーダンスを交えたファンタジックなスペクタクルを見せた。映画「蜘蛛巣城」は、シェークスピアの四大悲劇の一つ「マクベス」を戦国時代に置き換えて翻案した作品である。原作でも映画でも、人間の「業」に言及している。「最近、人間の業の深さとか、人間の浅ましさを眼の当たりにして身につまされる思いをした経験はあるか?」と本人に水を向けると、「自分の行ないを含め、細かくは触れませんが、そうした経験は多々あります。あの映画から強く受ける「本来その立場や地位に身を置く器ではない人間の行なう愚かな行為」とか「我欲に流された人間の浅ましさ」に辟易させられることも屡々。とりわけ今の世の中には多いような気がします」と返ってきた。勿論、ショーで発表された服は日常着をベースにしているから、業の深さ云々とは全く別物である。しかし、物語るストーリーに張り詰めた緊張感と、意図的に挿入されるユーモラスな点描とが効果的な対照をなし、否応なしに我々を彼の物語に引き込んでいくのである。余談めくが、高橋が戦国時代の甲冑、野良着や羽織、振袖などの、所謂「和」の要素を服のデザインに大々的に採用したのはこれが初めてである。但し、キモノをデザインしたわけではない。「和」の細部を引用しながら、本丸は日常着。その枠を食み出すことなく匙加減を巧く効かせている。

 実は「アンダーカバー」が東京でショーを発表していた時分に、一度だけ黒澤映画(まさしく冒頭で述べた「天国と地獄」がそれだ)へのオマージュとなったコレクションがある。「レリーフ」と題した1999年春夏コレクションだ。服は勿論、モデルのメークまでも白黒の劇画タッチで纏めた、ブランド初期のコンセプチュアルな創作を代表するコレクションである。高橋の狙いは用意周到で、招待状と一緒にナイロン製の黒のパーカを送り付け、当日は必ず着用すること、と注文まで付け、彼は客席からも余計な色を消し去るつもりでいたのである。穿き古したジーパンに見られるアタリ(擦れて生地が色落ちした場所)を陰影で表現しようとした発想(アタリを浮き彫りに見立てた)は、服の細部の形状を人工的に褪色させた生地の影の痕跡で表現するものだった。影だけが頼りの創作の中で、最後のルックにのみピンクを落とした洒脱さは、正しく映画「天国と地獄」になぞらえたものだった(白黒映画の中で唯一彩色の煙の場面がある)。高橋のナルシシズムに付き合わされる我々の方こそ大いに迷惑であると、その当時から捻くれ者の私なぞは送られてきた真っ黒なパーカを手にした時に少しく鼻息が荒くなってもいたのだが、実際、会場で繰り広げられた一貫した一つの調子にまんまと嵌められ、我知らずカタルシスを得て溜飲を下げることが出来たことを覚えている。

 断っておくけれど、高橋の服作りはいつも映画ありきではない。だが、映画と云う表現媒体は、確かに彼の創作意欲を頗る刺戟する一つなのだ。前述の「蜘蛛巣城」にかこつけて意地悪な質問をしてみた。「日本映画に限らず、戦国史、謀反や人間の宿命を扱った作品、例えば「三国志」などの歴史小説を創作の俎上に横たえてみようとは思わなかった?」と投げ掛けた。彼曰く、「いいえ、考えたことはありません。自分は、ビジュアルが表現と一体となった「映画」を通じて得たインスピレーションを服作りに展開するタイプなので、他の選択肢はなかったと思います」と云う。

 たとえば文芸とは、作家が自分の企図に従って、我々に本質的な現実のコマ切れを選んで一本のフィルムに編集し直したものだと信じ疑わない。優れた映画も然り、また、とびきりのファッションショーにも通じる真理だと私は常々思っている。作者の想像力、構想力、創造力にしても、それは否定、拡大、縮小、語彙の組み合わせなどの手段に限られていて、根は現実にあることに変わりはない。そして現実は屡々、作者の想像力以上のものを見せてくれるのである。我々がファンタジーの真っ只中へと導かれるのは、現実とも夢とも、事実とも幻覚ともつかない曖昧さが、物語の大団円に至るまで持続されていくからで、そこから見る側に些かの躊躇いが生まれる。このちょっとしたズレが堪らないのだ。日常を揺るがせにはしない夢の味付けの微妙な塩梅、その感覚は高橋の生得のものであるが、彼は知的な操作によってそれを琢磨してきた。ぶっつけに投げ出された感覚もなければ、生地のままの素顔を見せることもない。必ずや理知のベールがそれを覆い、創作的技巧が詩人的情緒を制御しているようにも見える。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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