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『水を縫う』寺地 はるな著 自分が自分であることを許す日

 
 
 ある家族の物語だ。高校生の「清澄(きよすみ)」、学習塾で事務職に就く「水青(みお)」、彼らの母「さつ子」と祖母「文枝(ふみえ)」の4人。一見すると、よくある4人家族だけれど、それぞれの視点で語られる文章からは、それぞれがそれぞれの事情に縛られていることがわかる。

 清澄は、刺繍をこよなく愛する。祖母の部屋で針を操ることが、何よりの喜びだ。しかし母のさつ子はそれを良しとしない。ごく普通の「男の子らしい」幸せをつかんでほしい、その一心で、清澄の希望をことごとく「やめとき」と阻む。

 姉の水青は、幼い日のトラウマのせいで、いわゆる「かわいさ」「女の子らしさ」を拒みながら育った。結婚を目前に控えながら、ドレスを身につけることそのものに、嫌悪感さえ抱いている。そんな水青のウェディングドレスを、自分が縫いたいと清澄が名乗り出る。

 母のさつ子は、別れた夫へのいらだちを、今なお、腹の底に抱えながら生きる。思うようにならない人生において、「結婚さえすれば」「子供さえ生まれれば」「二人目さえ生まれれば」「子どもたちが大きくなれば」と、希望を先延ばしにしながらここまでやってきた。

 祖母の文枝は、幼い頃から、親たちが口にする「男らしさ」「女らしさ」に釈然とせぬまま生きてきた。自分の幸せは自分で選ぶべしと娘を育てたけれど、当のさつ子はそんな母の態度に、愛情の欠乏を感じている。

 そんな4人の言い分が順番につづられたあと、第5章では思わぬ語り手が登場する。そしてこの章こそが、この物語の「肝」である。「家族」を持たずに生きてきた者の眼差し。もちろん、一家を縛っていたものが、一気に飛び散るわけでは決してない。けれど、うつむいていた子供たちが顔を上げ、大人たちは少しだけ、自由になる。自分が自分であることを、皆が、自分自身に許してゆく。

 自分が、自分である証し。我を忘れて、熱中できる何か。それに没頭することで、魂は喜びにふるえる。そんな宝物を抱いて生きる者もあれば、探しているのになかなか見つからない者もいる。それを生業とする者もあれば、仕事以外の時間に満喫する者もいる。本書は、どの生き方をも否定しない。そこがいい。すべての人生に、幸あり。もちろん、あなたの人生にも。
(集英社 1600円+税)=小川志津子

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