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(5)日常の喜び 「ハイジ」で初のロケハン

「アルプスの少女ハイジ」のモデルとなった山小屋の前に立つ(左から)宮崎さん、小田部さん、高畑監督=1973年
「アルプスの少女ハイジ」のモデルとなった山小屋の前に立つ(左から)宮崎さん、小田部さん、高畑監督=1973年
「アルプスの少女ハイジ」セル画+背景画(C)=ZUIYO 「アルプスの少女ハイジ」公式ホームページhttp://www.heidi.ne.jp
「アルプスの少女ハイジ」セル画+背景画(C)=ZUIYO 「アルプスの少女ハイジ」公式ホームページhttp://www.heidi.ne.jp
「アルプスの少女ハイジ」の舞台を再現した精巧なジオラマ。岡山県立美術館で開催予定の「高畑勲展」で展示される
「アルプスの少女ハイジ」の舞台を再現した精巧なジオラマ。岡山県立美術館で開催予定の「高畑勲展」で展示される
 1973年の夏だった。スイス東部の山岳地方、マイエンフェルトの街から歩いて約2時間。野の花の咲く山道から急な斜面を登りきると、小さな小屋が現れた。

 少女ハイジが暮らす「アルムおんじの山小屋」のモデルだ。青々とした牧草地と森、澄み切った空、そびえ立つ山々。「見るもの全てが珍しく、何でもスケッチした」。名アニメーターの小田部羊一さん(83)=埼玉県所沢市=は、事前調査で訪れたアルプスの情景を思い出す。

 小田部さんと高畑勲監督(1935~2018年)、宮崎駿さんらは世界名作シリーズ「アルプスの少女ハイジ」(1974年)の制作を前に、日本のアニメーション史上初となるロケハンを敢行。現地での体験は作品の完成度を高めることになる。

実在の外国 

 当時の日本のアニメは、スポ根ものやロボット、魔法などが登場する刺激の強い作品が主流だった。高畑監督らはそれぞれ子育ての最中だったこともあり、「日々の暮らしに喜びを見いだすような物語で、子どもの心を解きほぐしたい」との思いを募らせていた。

 その実現へ3人は東映動画を退社。親子パンダと少女の交流を描いた「パンダコパンダ」(72年)などのファンタジーを手掛けた後、舞い込んできたのが「ハイジ」の企画だった。

 高畑監督は「実在の外国を舞台にした物語を日本人が描けるのか」と悩んだが、企画を持ち込んだアニメ制作会社はロケハンを約束する。

 一行はスイス、ドイツを10日間かけて巡った。小田部さんは山小屋の農具や靴から、出会った人、動物などあらゆる物をスケッチし、高畑監督は人々に取材して必死にメモを取り続けた。

世代を超え 

 干し草のベッドに、新鮮なヤギのミルクやチーズ、四季折々に表情を変える山の自然。アルプスの暮らしを丁寧に描こうと、高畑監督は山小屋でのシーンを原作の数倍にも膨らませて演出した。ロケハンでの見聞を存分に生かした放送は、大きな反響を呼んだ。

 半面、映画と違い毎週のテレビ番組で高い作品水準を保つ労力は半端ではなかった。スタッフはスタジオに寝泊まりし、「放送日だけ帰宅して、子どもたちの反応を見ていた」と高畑監督の妻かよ子さん(79)。このとき作画のレベルを保ちつつ効率的に作業を進めようと生み出した、場面ごとにレイアウト(設計図)を作るシステムは、アニメーション制作現場に大きな影響を与えることになった。

 日常の中で紡がれる、少女の喜びや悲しみを描いた「ハイジ」は、世代を超えて共感を生み、放映から40年以上たった今も世界中で愛され続ける。高畑監督は続けて「母をたずねて三千里」(76年)、「赤毛のアン」(79年)でもロケハンを行う。綿密な調査から“当たり前の日常”を積み上げていく手法は、後のすべての創作の土台となる。

リアリティー 

 一方で「アン」の制作を終えて、高畑監督は日本と文化も言葉も異なる他国の文学を描くことに限界を感じていた。

 この後、宮沢賢治原作の「セロ弾きのゴーシュ」(82年)と並行して制作したのが、ハイジやアンから一転し、コテコテの関西弁を操る下町の少女が活躍する「じゃりン子チエ」(81年)だった。

 美術担当の山本二三さん(66)=埼玉県飯能市=とともに大阪・西成の木賃宿に泊まって現地を体感。原作漫画を忠実に再現しつつ、ホルモン焼き屋や屋台、路地裏などの風情を、生々しく描き出すことに成功する。「原作が持つ独特の風合いに、さらなるリアリティーが加わった」と山本さんは手応えを語る。

 この作品以降、高畑監督の関心は、日本人の所作や生活をいかに表現するか、へと向かっていく。

(2020年03月29日 15時37分 更新)

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