山陽新聞デジタル|さんデジ

(1)岡山空襲 悲惨体験、終生テーマに 「火垂るの墓」へ投影

ともに岡山空襲を生き延びた五十鈴さん(左)と高畑監督。大人になってからも強い絆で結ばれていた=2008年、岡山市
ともに岡山空襲を生き延びた五十鈴さん(左)と高畑監督。大人になってからも強い絆で結ばれていた=2008年、岡山市
一緒に写った写真や直筆の色紙を眺め、高畑監督をしのぶ姉の菅原五十鈴さん=広島市西区の自宅
一緒に写った写真や直筆の色紙を眺め、高畑監督をしのぶ姉の菅原五十鈴さん=広島市西区の自宅
「火垂るの墓」のセル画と背景画=(C)野坂昭如/新潮社、1988
「火垂るの墓」のセル画と背景画=(C)野坂昭如/新潮社、1988
岡山空襲で焼け野原となった田町橋周辺。高畑監督と五十鈴さんはこの西川を渡り東へ逃げた(宗政博撮影、岡山空襲展示室提供)
岡山空襲で焼け野原となった田町橋周辺。高畑監督と五十鈴さんはこの西川を渡り東へ逃げた(宗政博撮影、岡山空襲展示室提供)
 高畑勲監督が2018年4月5日に82歳で亡くなり、2年を迎える。岡山県立美術館(岡山市北区天神町)で4月に開幕予定の初の回顧展を前に、岡山で過ごした少年期の様子や、日本を代表するアニメーション監督となってゆく歩みを、多くの証言からたどってみる。

   ◇

 B29爆撃機がばらまく無数の焼夷(しょうい)弾は、街を瞬く間に火の海に変えた。1945年6月29日未明、岡山市中心部を襲った岡山空襲。逃げ惑う人々の中に、家族とはぐれた幼い姉弟の姿があった。

 「いすちゃん、いすちゃん」。爆風で気を失った姉を起こそうと、少年は懸命に叫び、体を揺すった。少年の名は高畑勲。後に日本アニメーション史に残る数々の名作を生み出す監督となる。

 当時、岡山師範学校付属国民学校4年の9歳。姉の五十鈴さんは同6年で11歳。2年前に三重県から引っ越してきた。上の姉2人は既に結婚しており、両親をはじめ7人家族で旧出石小付近(現岡山市北区柳町)に住んでいた。

 自身と姉、家族は九死に一生を得たものの、家は焼け落ち、逃げ遅れた人々の死体もたくさん目にした。無差別に市民を巻き込む恐ろしい空襲を、高畑監督は「一度も忘れたことはない」と語っている。

 理不尽な暴力に翻弄(ほんろう)される市井の人々。そして、そうした時代を生んでしまった社会へ向ける鋭いまなざし。岡山での少年期の体験は、高畑作品を終生貫くテーマの一つとなる。

戦火を姉と生き延びる

 「空襲や、逃げろっ」。兄の叫び声で目覚めると、隣家は既に炎を上げていた。高畑勲少年と姉の五十鈴さんはすぐに家を飛び出した。他の家族がいないことに気づいたが手遅れで、群衆にのまれながら焼夷(しょうい)弾を避けるよう東へと逃れた。

 大雲寺交差点に差し掛かった時だった。大型の焼夷弾が近くで破裂し、衝撃で五十鈴さんは失神した。勲さんの呼び掛けで意識を取り戻したが、周りでは大勢が亡くなっており「勲は命の恩人。助け起こされなかったら死んでいた」と振り返る。

 散乱したガラスやどろどろに溶けたアスファルト、崩壊する建物を目の当たりにしながら、何とか旭川の河川敷にたどり着いた。はだしの勲少年の足は血だらけで、五十鈴さんのおしりには焼夷弾の鉄片がめり込んでいた。強い痛みと追い打ちをかける冷たい雨の中で、夜明けまでじっと耐え続けた。

“反戦”に違和感 

 「私の人生で最大の出来事」。高畑監督は後に岡山空襲の体験をそう述べるが、人前で話すことはほとんどなかった。沖縄戦や広島・長崎、そして戦場となった国々で多くの人が悲惨な目に遭っている。自身の経験はあえて語るほどではない、との思いがあったからだ。ただこの時の鮮烈な記憶は、代表作「火垂(ほた)るの墓」に色濃く投影された。

 1988年に公開された作品は、戦時下に父母を失った兄妹がたどる悲しい運命とともに、無差別に市民を攻撃する空襲の恐ろしさなどをリアルに描いた。

 空中でパッと割れた焼夷弾が、火の雨となって人々の頭上に降り注ぐ描写は、専門家から空中発火はしない、と指摘されても「私は明らかに見た」と譲らなかったという。

 焦土と化した街の情景もこだわった。日本家屋の残骸は素焼きのような色、一部が焼け残ったのはビルや頑丈なモルタル造りの蔵。助言を受けて背景画を描き上げた美術監督の山本二三さん(66)=埼玉県飯能市=は「監督は焼け出された人々の心情まで考えていた。作品にかける強い思いを感じた」。

 渾身(こんしん)の作品は人々の胸を打ち、反戦映画として高い評価を得た。だが高畑監督はそれに強い違和感を覚えていたという。

平和への思い胸に 

 戦争の惨禍や悲劇をいくら語っても、将来の戦争を防ぐ力には大してならない―。

 戦中戦後の社会や人々の変わり身を体感してきた高畑監督は、なぜ戦争を始めてしまったのか、為政者や国民はどう振る舞ったのか、その根底をしっかり見つめなければ、再び戦争への道を歩むとの危機感を抱いていた。2004年には山田洋次監督らとともに「映画人九条の会」を結成するなど、戦争抑止の声を生涯上げ続けた。

 戦争の語り部が減り続ける中、最晩年には自らの空襲体験も周囲に伝え始める。五十鈴さんにも「一緒だったからこそ空襲を生き延びられたんだ」「岡山での体験がなければ、火垂るの墓は作っていなかった」と打ち明けたという。

 亡くなる3年前の15年6月29日。戦後70年を記念し岡山市が開いた平和講演で、高畑監督は参加者に呼び掛けている。「今なお戦後と言えることがどんなに幸せなことか。日本は憲法によって戦争をしない国であることを、改めて誇り高く宣言すべきだ」

   ◇

 高畑勲(たかはた・いさお) 1935年三重県生まれ。父の転勤に伴い43年岡山市へ。岡山大付属中、朝日高を経て東京大文学部仏文科卒業、東映動画に入社した。「太陽の王子 ホルスの大冒険」など手掛けた後、日本アニメーションなどに移籍、85年スタジオジブリ設立に参加する。他の代表作に「おもひでぽろぽろ」「かぐや姫の物語」など。98年紫綬褒章、2015年にフランス芸術文化勲章オフィシエを受章。

【作品データ】

 火垂るの墓 1988年。監督・脚本高畑勲。太平洋戦争末期、神戸大空襲で母と家を失い、2人だけで生き抜こうとした兄妹の悲劇をリアルに描いた。原作は作家野坂昭如(あきゆき)の直木賞受賞の同名小説。ジブリ作品として宮崎駿監督の「となりのトトロ」と2本立てで同時公開された。

(2020年03月14日 11時02分 更新)

あなたにおすすめ

ページトップへ