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勘当、子規の死「最高受難」 岡山出身 赤木格堂はがき発見

正岡子規が死去した1902年を「最高受難期」などと振り返った赤木格堂のはがき(裏面)
正岡子規が死去した1902年を「最高受難期」などと振り返った赤木格堂のはがき(裏面)
赤木格堂(県立博物館提供)
赤木格堂(県立博物館提供)
 岡山市出身の新聞人・政治家で、俳人や歌人としても知られる赤木格堂(1879~1948年)が学生時代、師事した正岡子規の後継と期待されながら、家庭の事情などで文芸の道を断念した経緯を記したはがきが、6日までに見つかった。子規の死に目に会えなかったこともあり「僕の最高受難期」と表現し、沈痛な思いが伝わる。岡山県立博物館(同市北区後楽園)で来年1月1日から始まる「正岡子規と仲間たち」展で初公開される。

 格堂は小串村(現岡山市南区小串地区)の生まれ。幼少から作句に励み、東京専門学校(現早稲田大)在学中、週末ごとに子規を訪ねて指導を受け、子規の病が重くなってからは、選句を代行するなど高弟として活躍した。しかし卒業間際の02年、実家から不本意な勘当を伝えられるなどしたため帰郷。子規はその間に亡くなり、格堂は同じ門下の高浜虚子からの手紙で知ったという。

 その後、格堂は文芸から離れ、新聞社入社や雑誌の創刊などを経て、17年に岡山から衆議院議員に当選。さらに山陽新報(山陽新聞の前身)の主筆も務めている。

 見つかったはがきは、岡山市の格堂の子孫が保管していた。内容から後年に振り返って書いたと考えられ、宛名は友人の俳人辻濛雨(もうう)(同市)。消印はなく投函(とうかん)されなかったとみられる。人生の転機となった02年について「家から捨てられ子規に逝かれ、僕に残つた道は外交官の試験を受けるだけであつた」「俳句も短歌も断然廃した」と回顧。後に再び俳句や短歌を手掛けるようになるが、「昔の仲間に誘はれて唯(た)だお茶を濁ごす程度であつた」とつづっている。

 同館の野田繭子学芸員は「子規の27回忌に出版された雑誌に格堂の追悼文があり、似た内容が書かれていることから、その頃のはがきかもしれない。当時の格堂の状況や気持ちが具体的に記され、興味深い」としている。

 同展では、子規の絶筆となった句や自宅庭の草花などを描いた画日記のほか、格堂、夏目漱石ら交流があった文化人ゆかりの約60点を展示する。

 あかぎ・かくどう 本名は亀一(かめいち)。東京専門学校卒業後、九州日報(西日本新聞の前身)に入社し主筆となる。1908年から独、仏に留学し植民政策を研究。帰国後は雑誌「青年日本」を創刊し、衆議院議員(1期)にもなった。20年から約1年間、山陽新報主筆。その後小串村長も務めた。岡山ゆかりの幕末の万葉調歌人・平賀元義を子規に紹介し、元義が評価されるきっかけになった。

(2019年12月08日 16時27分 更新)

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