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宇高航路、瀬戸大橋と共存できず 自助努力に限界、打開策示せず

宇高航路、瀬戸大橋と共存できず 自助努力に限界、打開策示せず
 本州と四国を結ぶ大動脈として、市民生活や物流で大きな役割を果たしてきた宇高航路。1988年に瀬戸大橋が開通して以降は競争の波にさらされ、共存の方策を見いだすことができないまま姿を消す見通しとなった。

 起源の国鉄連絡船は明治期に就航。産業発展などを背景に輸送量は右肩上がりで増え、民間3社のフェリーも参入した。修学旅行生ら168人が犠牲となった連絡船・紫雲丸の沈没事故(55年)を契機に本四架橋実現への機運が高まり、88年に瀬戸大橋が開通すると役割を失っていった。

 瀬戸大橋の通行料金があまりに割高だったため開通後も多くのフェリー便が運航され続けたが、度重なる大橋料金引き下げとともに利用は低迷の一途をたどった。決定打となったのは、2009年に国が実施した休日上限千円の高速料金大幅割引。直後に1社が撤退し、翌年に2社もそろって廃止届を提出(後に撤回)した。

 フェリー関係者から「国策に振り回された」と恨み節も聞かれたように、減便などの自助努力だけでは限界があった。国や地元自治体も効果的な打開策を示せなかった。

 悪天候や大規模災害で瀬戸大橋が通行できなくなった場合の代替輸送の機能に加え、港町として発展してきた玉野、高松の両市にとって象徴となってきた航路を失う。新たな地域像をどう描くのか。重い課題が突きつけられている。

(2019年11月08日 23時00分 更新)

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