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(1)70余人の死 路上生活者を隔離 劣悪極めた施設環境

岡田更生館での死者を悼む石碑。表面に刻まれた文字は「岡田更正舘」となっている=倉敷市真備町岡田の山林
岡田更生館での死者を悼む石碑。表面に刻まれた文字は「岡田更正舘」となっている=倉敷市真備町岡田の山林
岡田更生館内部の様子。1949年2月24日付山陽新聞朝刊に掲載された
岡田更生館内部の様子。1949年2月24日付山陽新聞朝刊に掲載された
 人知れず保管されている名簿が倉敷市真備町地区にある。ある施設で命を落とした人たちの年齢や死亡年月、氏名などが筆書きで記されている。

 〈四十二 昭和二十三年九月〉〈三十一 昭和二十三年十一月〉〈二十五 昭和二十四年一月〉……。

 大半は成人だが、年齢を見ていくと〈当才〉(0歳)、〈二〉〈十一〉など幼い子どもも含まれる。

 施設の名は「県立岡田更生館」。太平洋戦争が終結して1年余りたった1946(昭和21)年12月、路上生活者を隔離する目的で現在の真備町岡田地区に設置された。

 施設環境は劣悪を極めた。当時の本紙記事によると開設から2年余りで、館内で亡くなったのは76人にも上る。72人だったとする元県職員の手記もあるが、「県に資料が残っていない」(県保健福祉部)ため正確な数は分かっていない。

慢性栄養失調

 終戦後の混乱期。戦禍で住む場所や肉親、仕事を失い、路上生活を余儀なくされた大人や子どもがまちにあふれていた。20歳以下を対象とした厚生省(現厚生労働省)の48年調査では全国で約12万3千人が確認され、岡山県には約2千人いた。

 そうした人たちを一掃するために強制収容していたのが、岡田更生館だった。

 「朝夕はいつも水のような大根がゆ」「昼はパンか豆の入った黒い麦飯で、病人のような人がうごめく」

 当時の本紙には窮状を訴える生々しい声が掲載されている。入所者は慢性的な栄養失調に苦しめられ、厚生省が49年に行った現地調査によれば、死因で最も多かった。

 逃亡者は直ちに捕らえられ、職員から制裁を受けたという。頭を蹴る、木刀で頭を打つ、上半身を裸にしゴム草履で殴る…。私刑は深夜に及ぶこともあった。

 過剰な収容も問題だった。前述の調査では収容者275人(49年2月時点)に対して居室は20室計215畳分しかなく、1畳当たり1.3人ほどがひしめいた。さらに約半数が結核、ほぼ全員が皮膚病・疥癬(かいせん)を患っていたとみられ、衛生状態は劣悪だった。

この世の地獄

 今から70年前の1949年。岡田更生館での惨状は新聞報道によって明るみに出て、世間に衝撃を与えた。「この世の地獄」などとして衆参両院の厚生委員会で取り上げられ、福祉施策の根本的な再検討を求める声も上がった。

 戦災に伴う路上生活者の問題に詳しい立教大の前田一男教授(日本近代教育史)は「彼らは戦争が生み出した弱者だ。行政による救済は形だけあったものの、実際は多くが機能していなかった」と指摘した上で、こう続けた。

 「それでも、岡田更生館のように大勢が亡くなったケースはあまり聞いたことがない」

 県立岡田更生館 太平洋戦争後、県内で急増した路上生活者を強制収容する施設として、県が設置。主に成人男性を収容し、ピーク時は500人を超えていたとされる。人権侵害の実態が明るみに出てからは「県吉備寮」と名称を変え、昭和30年代に廃止された。戦後の収容施設は県内では他に、県立黒崎更生館(現倉敷市)や西川寮(岡山市)など。厚生省(現厚生労働省)の調査によると、1948(昭和23)年7月時点で全国には62施設あり、うち県内には3施設。

     ◇

 戦争で路上生活を余儀なくされた岡山の人たちが収容され、亡くなったのはなぜか。記録や証言を基に追う。

(2019年09月02日 15時14分 更新)

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