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『美しき愚かものたちのタブロー』原田マハ著 名作絵画が今ここに在る奇跡

 上野駅の改札を出る前から分かった。きょうも混んでいる。上野公園の入口に近い場所に立つ国立西洋美術館。小雨の中、人々が長蛇の列を作っている。ロダンの「カレーの市民」を通り過ぎ、チケット売場の列に並ぶ。

 日本人は本当に西洋絵画が好きだなあと思う。私もその一人。きょうの目当ては「松方コレクション展」。原田マハ著『美しき愚かものたちのタブロー』を読み終えて以来、見たくてうずうずしていた。

 本書は、この美術館設立のきっかけであり、収蔵作品の柱にもなっている「松方コレクション」がたどった数奇な運命を描く。神戸の川崎造船所(現・川崎重工業)を率いた実業家、松方幸次郎が築いたコレクションだ。

 原田は現代日本のアート小説の第一人者。彼女は、アンリ・ルソーやピカソ、ゴッホといった天才画家たちを題材に、一枚のタブロー(絵画)が存在する“奇跡”について書いてきたように思う。名作の周辺には、それを描かせた人々や、その絵の価値に気付いて買ったり守ったりしてきた人々の営みがある。原田はそれら全てをいつくしむ。そうしたアート愛は、本書にもぎっしり詰まっている。

 松方のほか、サンフランシスコ講和条約に調印した宰相吉田茂、松方の腹心の部下である日置☆(金ヘンに工)三郎といった実在の人物に加え、田代雄一という美術史家が登場する。架空の人物だが、松方が絵画を購入する際のアドバイザーの一人となった西洋美術史家の矢代幸雄がモデルのようだ。

 物語はその田代雄一が、パリのオランジュリー美術館でクロード・モネの「睡蓮」に心打たれる場面から始まる。「その展示室に一歩足を踏み入れた瞬間、田代雄一は、澄み渡った池に投げ込まれた小石の気分を味わった」。これが冒頭の一文。原田の小説は、傑作絵画と向き合う感動を描くとき、とりわけ熱がこもる。

 田代は1953年、文部省の役人とともに、松方コレクションを取り返すためにパリにやって来た。コレクションの返還は、吉田茂が道筋をつけたが、実際の交渉は難航する。

 松方コレクションは「敵国の在外財産」としてフランスに接収された。つまり今はフランスの所有物なので、「返還」ではなく「寄贈」であり、コレクションの中核を成す傑作約20点は返さないというのだ。寄贈拒否の作品にはゴッホの「アルルの寝室」も含まれていた。購入にあたり田代が口添えをした特別な一枚だ。

 時代はさかのぼり、田代が初めてパリに来た21年、西洋絵画を目にした時の興奮が生き生きとつづられる。田代は、松方がパリの画廊を回って次々に絵を購入していくのに付き合う。松方は、日本の若者のために一流の西洋画を集めた美術館をつくりたいと考えていた。

 モネ本人との交流、名作との出会いなど、この時代が描かれる章は心が浮き立つ。しかし戦時色が濃くなってからコレクションがたどる道は険しい。

 松方からタブローを守ってほしいと頼まれた日置☆(金ヘンに工)三郎の闘いが描かれる終盤は、物語の色調が暗く、重苦しいものになる。アボンダンという村にコレクションを移し、命がけでそれを守った日置の仕事が心に残る。

 「松方コレクション展」に足を運び、いくつもの名作を味わいながら、これら一枚一枚の絵が歩んできた道の過酷さと、それでも生き延びて巡り会える幸運を思った。強い思いで守り抜いた人々がいなければ、これらは今、ここにはないのだ。
(文藝春秋 1650円+税)=田村文

(2019年07月12日 07時02分 更新)

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