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儒学者・頼山陽の新書状見つかる 和気・旧大國家住宅の調査で2枚

頼山陽が門弟の帰郷に際し、知人らに宛てた2枚1組の書状
頼山陽が門弟の帰郷に際し、知人らに宛てた2枚1組の書状
 歴史書「日本外史」の筆者で知られる江戸時代後期の儒学者、頼山陽(1780~1832年)の新たな書状が30日までに、岡山県和気町尺所の旧大國家住宅(国重要文化財)で見つかった。京都から山口に帰郷する門弟の世話を、山陽道沿いに住む閑谷学校教授・武元君立(くんりゅう)(1770~1820年)ら知人に頼む内容。自作の漢詩も添えており「地域を超えた文人ネットワークの親密さがうかがえる」(同町教委)という。

 山陽は広島藩儒・頼春水の長男で、京都で私塾を開いて教育に力を入れる一方、岡山市出身の画家浦上春琴、陽明学者大塩平八郎ら多くの文人墨客と交流を持った。

 書状は2枚(各縦約20センチ、横約70センチ)。山陽を指す頼徳太郎の名で、1枚は赤間関(現山口県下関市)に帰る塾生広江常蔵のために宿の提供などを要請。もう1枚は武元ら親交があった8人の宛名とともに、愛弟子の帰郷を残念がる漢詩をつづっている。書状は2枚1組で、常蔵に持参させたとみられる。

 和気町が岡山大と2009年度から進める同住宅の古文書調査で、枕屏風(びょうぶ)に貼られた中から発見された。確認した頼山陽史跡資料館(広島市)によると、山陽の書翰(かん)集に未掲載の書状で「筆跡、内容などから直筆とみて問題ない」という。

 「頼山陽全書全伝・上」(1931年刊行)の年譜には、1814年11月30日、在京の常蔵が兄の死に伴い帰郷、中国筋の諸家への謝状を託したとの記述がある。今回の書状は11月29日の日付が入り、この謝状に当たるとみられる。

 書状は後に、武元家から大庄屋格だった大國家に渡ったと想定。同町教委の森元純一社会教育課主幹は「武元家と大國家はつながりが深く、書状を持っていても不思議ではない。酒好きで仕官を嫌うなど破天荒なイメージがある山陽の、門弟思いな一面が見えて興味深い」としている。同町歴史民俗資料館(同町藤野)は6月1日から書状を初公開する。

(2019年05月31日 08時14分 更新)

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