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福渡駅

午後1時すぎ、福渡駅に岡山行き953Dレがやってきた
午後1時すぎ、福渡駅に岡山行き953Dレがやってきた
線路は外されているが、駅構内は広い
線路は外されているが、駅構内は広い
駅前の建物が、かつてのにぎわいを伝えているようだ。「タクシー」の看板が粋
駅前の建物が、かつてのにぎわいを伝えているようだ。「タクシー」の看板が粋
福渡駅の正面。駅名看板が不釣り合いに大きい
福渡駅の正面。駅名看板が不釣り合いに大きい
駅本屋の建物資産標の日付は「明治42年1月」
駅本屋の建物資産標の日付は「明治42年1月」
1番ホームの擁壁はイギリス積み煉瓦。側線の腸壁の一部も煉瓦造り
1番ホームの擁壁はイギリス積み煉瓦。側線の腸壁の一部も煉瓦造り
2番ホームの擁壁はきれいに布積みされた花崗岩
2番ホームの擁壁はきれいに布積みされた花崗岩
3番ホームの擁壁は少し雑に谷積みされた花崗岩
3番ホームの擁壁は少し雑に谷積みされた花崗岩
福渡駅の建部側、横丁踏切と第三・第四避溢橋の間にある用地界標。頭に赤い鉢巻が巻かれているが、明治時代からこの景色を見守りつづけた境界杭だ
福渡駅の建部側、横丁踏切と第三・第四避溢橋の間にある用地界標。頭に赤い鉢巻が巻かれているが、明治時代からこの景色を見守りつづけた境界杭だ
 中国鉄道岡山市・津山(現在の津山口)間が開業した1898(明治31)年12月21日付「山陽新報」は、因幡街道と伯耆街道が合流する福渡には米穀、薪炭(しんたん)、建築材やマッチになる木材、コルクになる槇(まき)の皮、染料などが集まる。また、牛馬市が開かれるなどにぎやかだと報じている。福渡駅は一番大きい途中駅で、本屋の建坪は60坪(198平方メートル)、貨物庫24坪(79平方メートル)、駅員舎27坪(89平方メートル)だった。大阪の駸々堂(しんしんどう)が1903年に出版した『中国鉄道案内記』には公衆電話があり、菓子、弁当、すし、飯、お茶を販売していると書かれている。「第十一回中國鐵道株式會社 明治卅四年下期營業報告書(1902年3月31日)」には、津山駅と福渡駅で「公衆電報取扱開始」とある。

 中国鉄道会社がフレザー商会から買い入れたのは、石炭と水を積む炭水車を持たないイギリス製の小型タンク機関車だった。そのため途中駅で石炭と水を補給しなければならず、その役割を果たしたのが岡山市・津山間のちょうど中間、福渡駅だった。上りと下りの列車が給炭と給水をする間、乗客もホームに降りて背筋を伸ばし、飲み物や弁当などを買い求めていたのだろう。岡山市・津山間が2時間30分かかっていた頃だ。時計の針も今より1時間ゆっくりだった。しかし無人駅となった今の福渡駅から、往時の駅頭風景をしのぶのはむずかしい。

 駅本屋には「明治42年1月」と書かれた「建物資産標」が貼られているが、『中鐡九十年の歩み(中鐡バス、1991年)』には「大正元年10月16日 福渡駅舎火災(ただちに新築、同2年1月31日竣工)」と記されている。福渡駅で開業時の面影を探すと、線路は外されているが、敷地が広いことに気がつく。給水施設2基が備えられ、上りと下りの列車が一度に給炭、給水した駅だ。1番ホームと、今は使われていない側線の擁壁(ようへき)は煉瓦(れんが)造り。2・3番ホームの擁壁は煉瓦ではなく花崗岩(かこうがん)なのだが布積みと谷積み、景色が違う。

 駅構内の寺道踏切付近には軽レールで造られた柵が巡らされ、踏切から第三・第四避溢橋(ひいつきょう)までの間には中国鉄道会社の用地界標が残っている。明治時代の人が手作業で花崗岩を整形し、「中」と彫った境界杭だ。4月15日と5月1日付小欄で紹介した紅頬の煉瓦娘が誕生したのも福渡周辺だ。プラットホームの次は、津山線最大の旭川橋梁や第三・第四避溢橋に行けば娘らに会うことができる。次回の小欄でご託を並べる予定の福渡トンネルでも娘たちが待っている。筆者は福渡駅で下車するのが好きだ。「山陽新報」時代のにぎわいを探すのも味わい深いし、何度訪れても何か必ず新しい発見がある駅だ。

 ◇

 小西伸彦(こにし・のぶひこ)専門は産業考古学と鉄道史学。「還暦を過ぎても産業遺産、特に鉄道と鉱山の遺産を見て喜ぶ、よく言えば研究鉄、ふつうに言えばただのもの好き」とは本人の弁。産業考古学会理事、鉄道記念物評価選定委員。著書に「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」「みまさか鉄道ものがたり」(ともに吉備人出版)など。1958年総社市生まれ。香川大経済学部卒。

(2019年05月15日 11時00分 更新)

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