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ふたたびレンガの誘惑

福渡側から見た旭川橋梁=津山線建部・福渡間
福渡側から見た旭川橋梁=津山線建部・福渡間
福渡側の橋脚2基は煉瓦と花崗岩で造られた重厚な姿
福渡側の橋脚2基は煉瓦と花崗岩で造られた重厚な姿
橋脚の角には、花崗岩の隅石(すみいし)の横面(よこづら)と小面(こづら)が交互に現れるよう配され、一つの隅石には煉瓦5段が積まれている=津山線旭川橋梁
橋脚の角には、花崗岩の隅石(すみいし)の横面(よこづら)と小面(こづら)が交互に現れるよう配され、一つの隅石には煉瓦5段が積まれている=津山線旭川橋梁
河本慶吾「はじめての煉瓦」、『広報たけべ』No.207、1984年5月5日、6頁
河本慶吾「はじめての煉瓦」、『広報たけべ』No.207、1984年5月5日、6頁
寺岡某の煉瓦製造工場を紹介する「中國鉄道案内記」=「山陽新報」、1898年12月21日水曜日、4頁
寺岡某の煉瓦製造工場を紹介する「中國鉄道案内記」=「山陽新報」、1898年12月21日水曜日、4頁
梶岡煉瓦製造所の製造者=「山陽新報」、1890年6月19日木曜日、2頁
梶岡煉瓦製造所の製造者=「山陽新報」、1890年6月19日木曜日、2頁
 津山線には煉瓦(れんが)構造物が多い。どの橋梁に煉瓦があるか、どの駅のプラットホームに煉瓦が積まれているか、三つのトンネルはすべて煉瓦巻きだ、とはわかっているものの、その麗しい赤い肌を見ると、やはり、心は躍る。娘たちはどこの子なのだろう。気になって気になってしかたがない。研究鉄とストーカーは、似て非なるものか。

 山陽鉄道会社は藤井宿(しゅく)近くで煉瓦を焼いた。「山陽新報」はたびたび梶岡煉瓦製造所の動向を伝え、2015年7月1日付小欄などでも紹介した。煉瓦のスリーサイズは、ご婦人が左手で持つことのできる寸法に決められたそうだ。一つならまあいいが、数が増えたらズッシリこたえる。鉄道敷設現場には大量の煉瓦が集められたので、遠距離を運ぶよりも現場近くで造る方が便利だったのだ。

 津山線の煉瓦がどこの娘なのか、なかなかわからなかった。そこに手を差し伸べてくださったキューピッドが、岡山市北区建部町在住の民俗学研究家・神原英朗(こうはら・ひでお)さんだった。「広報たけべ」に「初めての煉瓦」という記事があると教えてくださったのだ。旭川橋梁の「煉瓦は福渡の町外れで焼かれ、農協本所の上手の交差点の付近に窯が築かれたのだ。土は、宮地の鍋土(後藤工場の北側)と高浜で掘って、トロッコでゴロゴロと運んで行った。この時の仕事親方は河本柾太郎さんで、徳田米造、河本岩太郎、河本喜太郎さんらが協力されたそうだ」。寄稿者の河本慶吾さんはそう述べている。

 おそらく河本怔太郎らは、中国鉄道会社の煉瓦製造所で働いていたのだろう。煉瓦製造所は福渡の町にあったが、土は八幡温泉側の宮地で掘られた。なぜ窯を、わざわざ旭川をわたった福渡に造ったのだろう。そういえば、中国鉄道が開業した日の「山陽新報」は「久米南條郡(くめなんじょうぐん)福渡村大字福渡には二十九年に立てられし寺岡某の所有なる煉瓦製造工場あり」と報じている。

 山陽鉄道梶岡煉瓦製造所は加古川の大村某が所有し、松本某が監督していたが、1890年6月頃には、上道郡(かみつみちぐん)藤井驛の西崎惠吉らも製造者に加わった。山陽鉄道会社は煉瓦製造所を木村某に経営させていたのか、あるいは払い下げたのか。では、旭川橋梁の煉瓦、河本怔太郎、寺岡某の三角関係は一体。レンガではなくモチを焼きたくなる。

 津山線旭川橋梁は、八幡(やはた)温泉のある建部側の橋台が総煉瓦造り。福渡駅側の橋脚2基は煉瓦と花崗岩(かこうがん)造り。明治の重厚な面構えだ。小欄で次回触れる第三・第四避溢橋(ひいつきょう)は、旭川橋梁と福渡駅の間にある煉瓦アーチ。娘たちのスリーサイズや顔色にはそれぞれ個性が見られる。はたして同じ煉瓦製造所で生まれたのだろうか。いくら問いかけても、娘たちは笑っているだけで何も答えてくれない。謎が深まれば深まるほど、赤い肌には妖艶(ようえん)さが募る。

 ◇

 小西伸彦(こにし・のぶひこ)専門は産業考古学と鉄道史学。「還暦を過ぎても産業遺産、特に鉄道と鉱山の遺産を見て喜ぶ、よく言えば研究鉄、ふつうに言えばただのもの好き」とは本人の弁。産業考古学会理事、鉄道記念物評価選定委員。著書に「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」「みまさか鉄道ものがたり」(ともに吉備人出版)など。1958年総社市生まれ。香川大経済学部卒。

(2019年04月15日 11時00分 更新)

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