山陽新聞デジタル|さんデジ

「いだてん」大森兵蔵は岡山人 日本初参加五輪で監督、功績に光

1912年のストックホルム五輪開会式で行進する日本選手団。左端は団長の嘉納治五郎で、その隣が監督の大森兵蔵。旗手は三島弥彦が務めた
1912年のストックホルム五輪開会式で行進する日本選手団。左端は団長の嘉納治五郎で、その隣が監督の大森兵蔵。旗手は三島弥彦が務めた
大森兵蔵と妻の安仁子(生涯学習開発財団提供)
大森兵蔵と妻の安仁子(生涯学習開発財団提供)
東京・雑司ケ谷霊園にある大森の墓。「妻 安仁子」の文字も
東京・雑司ケ谷霊園にある大森の墓。「妻 安仁子」の文字も
 1世紀以上前、日本が初めてオリンピックに参加した1912年ストックホルム大会の選手団はたった4人。その中に、岡山人がいた。監督の大森兵蔵(ひょうぞう)(1876~1913年)。開幕まで500日を切った2020年東京五輪の日本選手団は、役員を含め過去最多の千人規模に膨らむ見通しだという。放送中のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」で、その礎となった知られざる功績に光が当てられている。

 明治から大正へ変わる直前の1912年7月6日、大森はストックホルム五輪の開会式で、柔道の創始者として知られる選手団長の嘉納治五郎、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三(かなくり・しそう)と共に入場行進した。「いだてん」の次回17日放送で描かれる日本スポーツ史の記念碑的な場面だ。

 岡山県備前国上道郡高島村(現在の岡山市中区)の素封家に生まれた大森は、東京高等商業学校(現一橋大)を経て、25歳で米国に留学。スタンフォード大で経済学を専攻したが、体が弱く、日本人の体格向上の必要性を感じ、国際YMCAトレーニングスクール(現スプリングフィールド大)で体育学を修めた。

 32歳で帰国した大森は東京YMCAの初代体育部主事に就き、バスケットボールやバレーボールを日本に初めて紹介したとされる。米国で学んだ体育論や陸上競技論を誌上に発表。嘉納が主導した11年の大日本体育協会(現日本スポーツ協会)設立にも関わり、理事に就任している。

 「当時の日本で本場の陸上競技を実際に見てきたおそらく唯一の存在。希有(けう)な人材だった」と明治期のスポーツ史に詳しい国際日本文化研究センターの牛村圭教授(比較文化)。ストックホルム五輪の代表選考会では、大森の知識に基づいて400メートルトラックの競技場が造られ、競技規則も定められたという。100メートル決勝は、地面にしゃがんで両手をつくクラウチングスタートが採用されたが「大森の指導によるものと考えられる」(牛村教授)。

 ストックホルムからの帰国途上、大森は以前から患っていた肺結核を悪化させ36歳で早世する。米国留学で出会い、当時は珍しい国際結婚をした妻の安仁子(アニー・バロウズ・シェプリー)が最期をみとった。安仁子はその後も日本で慈善活動家、画家、翻訳家として活動を続けたという。

 大森の墓は、東京都豊島区の雑司ケ谷(ぞうしがや)霊園にたたずむ。「いだてん」では、俳優の竹野内豊さんがコミカルに演じるが、「理知的な方だったよう」と大森のめいの孫に当たる、生涯学習開発財団(東京)の佐藤梨奈事務局長。「生き永らえていれば、活躍の場は広がっていたはず。短いけれど重い足跡を多くの人に知ってほしい」と話す。

(2019年03月16日 09時40分 更新)

あなたにおすすめ

ページトップへ