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内田百閒の戦前日記初公開 5月に岡山で、激動の時代淡々と

内田百閒の生誕130年に合わせ初公開される1936~41年の日記
内田百閒の生誕130年に合わせ初公開される1936~41年の日記
二・二六事件発生日のページには<軍人謀反の噂を傳ふ>の記述が残る
二・二六事件発生日のページには<軍人謀反の噂を傳ふ>の記述が残る
日本郵船の一室での百閒。日記に<部屋を一つくれた。自分の仕事の上にも都合よかる可(べ)し>と就職の喜びを記した(1939年ごろ、岡山県郷土文化財団提供)
日本郵船の一室での百閒。日記に<部屋を一つくれた。自分の仕事の上にも都合よかる可(べ)し>と就職の喜びを記した(1939年ごろ、岡山県郷土文化財団提供)
 岡山市出身の小説家、随筆家内田百閒(ひゃっけん、1889~1971年)が、太平洋戦争前夜の36~41年に書き残した日記が生誕130年の今年、初公開される。戦時色が強まる中、市井の一生活者として淡々とつづられた日常から、軍国主義と距離を置く一貫した立場とともに、激動する社会を冷静に観察し、作品に昇華していく姿もうかがえる。同市で開かれる記念展で5月から展示されるほか、書籍も刊行予定。(内田百閒の「けん」は、門構えに月)

 日記は岡山県郷土文化財団が、百閒の門下生だった作家平山三郎さん(2000年死去)の遺族から02年に寄贈を受けていた。黒革の表紙の手帳6冊(縦13・3センチ、横8・0センチ)で、同財団と百閒の遺族で進めていた内容の精査が完了したため、節目に合わせ公開を決めた。戦中、戦後の日記は既に刊行されている。

 百閒は当時46~52歳で、法政大教授を辞職し文筆業にまい進。日記はほぼ毎日、鉛筆または万年筆で記入している。二・二六事件が起きた36年2月26日には、教え子の北村猛徳らから<軍人謀反の噂(うわさ)を傳(つた)ふ>。29日になり、肺炎だった長男久吉の重体の報を受け、駆け付けようとしたが<戒厳令により交通停止で自動車がなくぢりぢりした>と子を持つ父親として、騒乱への憤りを吐露している。

 41年12月8日の真珠湾攻撃については、<英吉利(イギリス)、亜米利加(アメリカ)相手の戰爭(せんそう)始まる>とあるのみで、<今夕、麥酒(ビール)なし>と続く。戦果が誇示されるなど国中が大騒ぎになったであろうが、事実だけを淡々と記した文面は、戦争に対する百閒の姿勢を投影するよう。

 その後の創作につながる記述もあり、陸軍少尉として中国へ赴く北村猛徳を見送った37年夏のエピソードは、随筆「蒙禿(もうとく)少尉の出征」として発表。作中で蒙禿(猛徳)が百閒に求めたシャツは、同年8月5日の日記から百閒自ら購入したことが分かる。39年から嘱託として勤めた日本郵船の貨客船に乗船した際は、風穴の調子が悪かったり、たばこの調達に苦心したりといった出来事を細かに記述。後に紀行文「鎌倉丸周遊」となり、旅を作品にした代表作「阿房列車」シリーズへもつながっていく。

 百閒は戦時中、文学者を集めて結成された「日本文学報国会」への参加を拒むなど、「冷静に時代を見つめ、記録しようとした姿は一貫していた」と同財団の万城あき主任研究員。「奇人、変人と評される百閒だが、日記からは世相に流されることなく、客観的に身辺を捉え、普遍的な日常を物語に昇華しながら、懸命に生きた姿が伝わってくる」と話す。

 日記は百閒の誕生月に合わせ、5月に慶応義塾大学出版会より刊行予定。現物は吉備路文学館(岡山市北区南方)で開かれる生誕130年記念特別展(2月10日~6月2日)で、会期中の5月21日~6月2日に展示を計画している。

 うちだ・ひゃっけん 岡山市中区古京町の造り酒屋に生まれる。第六高等学校(現岡山大)、東京帝大(現東京大)卒。法政大教授などを務めながら執筆活動に取り組み、1922年に初の小説集「冥途」を刊行。代表作に自身の生活を基にした「百鬼園随筆」、鉄道紀行「阿房列車」などがあり、独特の風刺とユーモアで人気を集めた。

(2019年01月06日 23時00分 更新)

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