山陽新聞デジタル|さんデジ

吉備津神社(きびつじんじゃ)

2025(令和7)年に再建600年を
迎えようとしている本殿・拝殿(国宝)
2025(令和7)年に再建600年を 迎えようとしている本殿・拝殿(国宝)
吉備津神社(きびつじんじゃ)
朱壇(本殿内部)
朱壇(本殿内部)
豪快な木組みの拝殿内部
豪快な木組みの拝殿内部
力強く伸びる廻廊(県指定重要文化財)
力強く伸びる廻廊(県指定重要文化財)
南随神門(国指定重要文化財)
南随神門(国指定重要文化財)
御竃殿(国指定重要文化財)
御竃殿(国指定重要文化財)
「鳴釜神事」の様子
「鳴釜神事」の様子
正月3日の「矢立神事」
正月3日の「矢立神事」
七十五膳据神事
七十五膳据神事
本装束を着用して行われる「浦安の舞」
本装束を着用して行われる「浦安の舞」
昭和34年に、県の重要無形民俗文化財に指定された宮内踊り。歌舞伎俳優が振り付けたもので、ゆるやかかつ優雅な動きの中に、男性的な美しさが光る。
昭和34年に、県の重要無形民俗文化財に指定された宮内踊り。歌舞伎俳優が振り付けたもので、ゆるやかかつ優雅な動きの中に、男性的な美しさが光る。
秋季大祭の千載楽
秋季大祭の千載楽
神話と古代ロマンが息づく心身を癒やす清遊の杜<歴史>大吉備津彦命を主神に一族の神々を祀る 吉備津神社は岡山市西部、吉備の中山の西麓に鎮座する山陽道屈指の大社だ。大吉備津彦命を主祭神とし、その一族の神々を祀っている。 大吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子にあたり、日本書紀によると、第10代崇神天皇の時代、大和朝廷に従わず各地で反乱を起こしていた賊徒の平定のために派遣された四道将軍のうちの一人である。西道(のちの山陽道)に入った大吉備津彦命は、この地に平和と秩序を築くべく茅葺宮をつくり住まいし、吉備国(備前・備中・備後・美作)の人々のために仁政を行った。 神社の創建については諸説ある。一説には、第16代仁徳天皇が吉備国に行幸した際に、大吉備津彦命の霊夢によって茅葺宮跡に社殿を創建して祀ったのが始まりとされる。 その後、『延喜式』の中で「名神大社」に列し、神階の最高位である「一品」の品位を授けられたことから、「一品吉備津宮」また吉備国総鎮守「三備(備前・備中・備後)の一宮」と称せられる。戦前は、官幣中社の社格をもち、広く朝野の信仰を集めている。 神社の鎮座する吉備の中山一帯には、大吉備津彦命を祀った前方後円墳の御陵など、古代吉備文化の足跡をたどる史跡や古墳が点在している。<見どころ>国宝の本殿・拝殿と総延長約400メートルの廻廊 県指定郷土記念物にもなっている美しい松並木の参道を抜けて石段を上ると、日本屈指の神社建築として知られる国宝の本殿・拝殿が姿を現す。少なくとも過去2回の火事に遭っているが、現在の本殿は勅命を受けた足利義満により、25年の歳月をかけて1425(応永32)年に再建されたもの。京都の八坂神社に次ぐ大きさで出雲大社の約2倍以上の広さを誇る。入母屋造の屋根を前後に並べ、棟と棟に縦一棟を通してつなぎ一つの大きな屋根にまとめた独創的な様式は「比翼入母屋造」といわれ、全国唯一であることから「吉備津造」とも称される。その保護のために、最新の防災施設を導入し、人々が受け継いできた文化財の護持に努めている。2025(令和7)年には、再建600年を迎える。ほか、国の重要文化財に指定されている南・北随神門や、中世の台所の様式を色濃く残す御竃殿など、見応えある建造物が多い。 本殿から続く総延長約400メートルの美しい廻廊も見どころの一つ。地形のままに真っすぐに伸び、えびす宮、御竃殿、本宮社など多くの摂社末社をつないでいる。 廻廊の途中にある南随神門は同神社に現存する最も古い社殿であり、傷みが進んでいたが、このたびクラウドファンディングで集まった浄財を活用する修復・美装化の工事が行われる。<伝承>鬼退治伝説と鳴釜神事の起こり 吉備津神社には、昔話「桃太郎」のルーツともいわれる有名な鬼退治の伝承が残る。諸説あるが、あらすじは以下のようなものだ。 第10代崇神天皇の頃、異国の鬼神が吉備国(現在の岡山県と広島県東部)に渡来してきた。百済の王子で名を「温羅」といい、吉備国の新山(総社市)に居城を構えた。温羅は極めて凶暴で、しばしば悪事を働き人々を困らせた。そのため朝廷は、武勇の誉れの高い皇子・五十狭芹彦命(大吉備津彦命、以下ミコトと表記)を派遣した。ミコトは「吉備の中山」に布陣して攻め入る。しかし変幻自在な温羅に苦戦を強いられた。矢を射ても、いつも反対から温羅の射た矢に落とされてしまう。そこでミコトは、2本の矢を同時に放った。1本の矢が温羅の左目を射抜く。血を流した温羅が雉となって逃げると、ミコトは鷹となって追う。温羅が鯉に変じて逃れると、ミコトは鵜となって噛み付いてついに捕えた。ミコトは温羅の首をはねてさらした。しかし温羅はうなり声をあげ続けた。その首を吉備津神社の「御竃殿」の釜の下に埋めたところ、13年間うなり声は止まず近郷に鳴り響いた。ある夜ミコトの夢に温羅があらわれ、「わが妻・阿曽媛に御竃殿の火を炊かせば、この釜を鳴らし吉凶を占おう」と告げた。 これが上田秋成の『雨月物語』にも登場し、今でも神社の「御竃殿」で行われている「鳴釜神事」である。参拝者の祈願成就を占う実際の神事では、二人の巫女(阿曽女)のうち一人がかまどを炊き、もう一人が釜の背後に立って古来より伝わる作法を行う。釜が大きく豊かに鳴れば吉、音が途切れたり鳴らない時は凶とされる。 2018(平成30)年5月には、「『桃太郎伝説』の生まれたまちおかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」が日本遺産に認定された。27の構成文化財の内、御竃殿や鳴釜神事など同神社に由来するものが多い。吉備の中山を含めると、実に8件にも及ぶ。<史跡と神事>矢立の神事と七十五膳据神事 ほかにも、ミコトと温羅が戦いを繰り広げた由縁の場所は今も神社周辺に数多く残り、古代のミステリーロマンとして歴史ファンを魅了している。 神社の北西には温羅の居城跡として有名な「鬼ノ城」をはじめ、石楯を立て防戦したといわれる「楯築遺跡」や、二人の放つ矢がぶつかって落ちた場所といわれる「矢喰宮」、温羅の血が流れた「血吸川」、鯉に変身した温羅と鵜に変身したミコトが攻防を繰り広げた「鯉喰神社」などがある。また、吉備津神社の境内には、ミコトが温羅との戦いで矢を置いた場所である「矢置岩」が残っている。正月3日には「矢置岩」のそばから神矢を射て災いを祓う「矢立神事」が行われる。その年の安寧を祈る年中行事の一つとして、初詣の参拝者の目を楽しませている。 そのほか、全国的にも珍しい神事として「七十五膳据神事」がある。春秋二季の大祭で行われる神事で、春は五穀豊穣を祈念し、秋は収穫への感謝を捧げる。御供殿に世話人十数人が集まり、数多くの神宝や神膳が用意される。膳の上に春は白米、秋に玄米を蒸してつくる円筒形の御盛相を中心に置き、その周りに鯛や時節の珍味を盛り、柳の箸を添える。先導祭員に続き、衣装をまとい神宝や神膳を捧げ持った奉仕者百数十人の長い行列は、多数の奉拝者の見守る中、粛々と廻廊を拝殿へ進み、伝供役から祭員へ伝供され、本殿内へ献供される。 春や秋の大祭では神賑行事として、小学校高学年から中学生ら子供舞姫による「浦安の舞」や「豊栄の舞」の奉奏が行われる。特に浦安の舞では、全国的にも珍しく、正式な本装束(あこめ装束)が着用され非常に優雅である。ほかにも、衣紋道高倉流岡山道場による十二単及び束帯の着付け、創作舞の奉納などが行われ、日本の伝統文化の継承にも寄与している。<ご利益>健康長寿や学業成就の守り神として知られる ご祭神の大吉備津彦命は二百八十一歳の長寿を全うしたと伝えられるため、「健康長寿」の信仰があつい。ほか、「学業成就」「交通安全」「建設工事安全」などのご利益でも知られる。また、様々な人生儀礼(初宮詣、七五三詣、成人式、結婚式、厄祓、年祝いなど)の参拝も多い。さらに昔話の「桃太郎」に例えられる通り生成育児の守護神であり、「知恵」「学業」の守り神として信仰されている。 また、同神社には江戸時代から続く「吉備津こまいぬ」というお守りがある。座った犬と立った犬、鳥の3体が一つになった素朴な土細工で、火難・盗難除けとして人気がある。最近では、有田焼の可愛らしい「桃懐守」も人気だ。平穏無事と開運招福のご利益があるという。ご案内住所/〒701-1341 岡山市北区吉備津931TEL/086-287-4111HPアドレス/https://kibitujinja.com/デジタルガイド/https://www.youtube.com/watch?v=QljyPsQDfSoインスタグラム/https://www.instagram.com/kibitsujinja/交通/岡山自動車道・岡山総社ICから車で15分。JR桃太郎線・吉備津駅から徒歩15分ご祭神/大吉備津彦命 ほか創建/不明ご利益等/健康長寿、学業成就、商売繁盛、交通安全 ほか代表的宝物/本殿・拝殿(国宝)、南随神門・北随神門・御竃殿・木造狛犬(国指定重要文化財)、廻廊(県指定重要文化財) ほか御朱印/受付9時~15時、社務所まで 300円年間行事毎月1日(1月を除く)/ついたち参り(午前6~8時)毎月1日/月旦祭毎月13日/月次祭1月1日/歳旦祭1月3日/矢立神事5月、10月(第2日曜日)/春季、秋季大祭(七十五膳据神事)6月30日、12月31日/大祓式7月31日/夏越祭・宮内踊り11月中/七五三詣12月28日/御煤拂神事
【フォトスポット】神池越しの廻廊と本殿・拝殿。幻想的で美しい。桜の時期や雪の時期には、また違った表情を見せる。
【ここ、知ってる?】宙に浮く縁側? 本殿は室町時代の建築であるが、鎌倉時代に伝わってきた「大仏様」という建築様式の初期のかたちが取り入れられている。その特徴があらわれた場所として、濡れ縁がある。本来なら縁の下で縁側を支えるはずの縁束がない。かわりに、「挿肘木(さしひじき)」という組物が縁側を支える。

(2023年10月11日 02時30分 更新)

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