「雑草という草はない」 多様性を大切にする日本人の国民性
最近、「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にするようになった。直訳すると「相違点・多様性」「幅広く性質の異なるものが存在すること」で、「一人ひとりがそれぞれ違っていること」を意味している。ビジネスの現場では、外部環境が変化していく中で、企業や組織は人種、性別、年齢、信仰などにこだわらず多様な人材を受け入れ、彼らの能力を最大限に発揮させようという考え方だ。日本人の国民性は「多様性」を受け入れないため、国際競争力が低下したと指摘する評論家もいるが、果たして日本人は多様性を嫌う国民性なのだろうか?
職業柄、毎日多くの方々と接するが、ときおり珍しい聞き慣れない姓(名字)の方と遭遇する。私の友人の「真行寺」さんは、全国で約500人しかいない珍しい姓だ(注1)。ただ、彼の職業は住職ではなく、バリバリのビジネスマンなのだが、温厚な性格の彼と話をすれば、その名字の響きも手伝って何か功徳をいただいたような気になる。
日本人の姓の種類は10万種を数え、世界でもこれほど多い国は珍しいといわれている(注2)。人口が14億人を超える中国でさえ約4,000種、韓国は約300種と少ない。そのほとんどが1字姓であり、「金」、「李」、「朴」さんだけで全人口の45%を占める。韓国では儒教が影響し、同族意識が強く、同姓不婚の慣習もその一因であるかもしれない。日本は古来、「多様性」を受け入れ、文化、社会慣習において多様性が見出される。「姓」も例外ではない。
ただ私の「渡辺(ワタナベ)」姓は、「佐藤」、「鈴木」などに次いで、ランキング5位に入るほど日本の中では多い姓だ。全国に約119万人の「渡辺」さんがいるらしいが、岡山大学泌尿器科同門180人の中にも4人の「ワタナベ」がいる。
私が医師になった30年前の大学病院では、同じ診療科の中に同姓のドクターがいれば、年次順に、渡辺A、渡辺B、渡辺CとA・B・Cで区別され、呼ばれていた。あるとき、「“少女A”じゃあるまいし、犯罪者のようで嫌だ!」と訴えた先生がいた。以後、それまでの「渡辺B先生」からファーストネームで「豊彦先生」と呼ばれるようになった。最初は欧米人のようで気恥ずかしかったが、そのうちに慣れてしまった。
ただこの「ワタナベ」、「渡辺、渡邉、渡邊、渡部」が一般的だが、「ナベ」の表記は実にさまざまだ。「辺」「邉」「邊」を中心に、そのパーツが「方」か「口」か、「自」か「白」か、しんにょうの点は一つか二つかなど、幾通りもの組み合わせが存在し、「ナベ」の異体字は一説によると100種類以上もあるといわれている。なぜ、このようにたくさんの「ナベ 異体字」が存在するのであろうか?
かつて戸籍は手書きで記載されていたため誤字が多かった。また、偶然にも筆先から墨が垂れて「・」や(丶)が加わったり、「とめ」が「はね」になったりしたため新たな字体として登録されたなど、届け人の個性がにじみ出たものも多かったようだ。
1949(昭和24)年、内閣は法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で使用する漢字の範囲を示す目的で、1850字の漢字を「当用漢字字体表」に掲げ、その音訓、字体を定め、訓令・告示した。しかしながら戸籍制度をあずかる法務省はどうもこれに対し微妙な態度をとったようだ(注3)。
子どもの「名」に関しては使える字体を「当用漢字字体表」に制限するものの、「姓」に関しては「康熙字典」など漢和辞典に載っている漢字なら何でもOKにした(注4)。そのため同じ戸籍でも、親子の間で名字の自体が異なり、本家と分家とを区別するために、意図的に異体字を使用することもあった。漢字で表記される名前が自らのアイデンティティーを示す大切なものであるという思いと、その画数が運勢を動かす特別な力を発揮するという信仰が加わり、「ナベ」という文字一つとってもバラエティー豊かなものになったのであろう。
結婚披露宴に出席するゲストが受付を済ませて、最初に手に取るのが披露宴席次表だ。自分の席がどこにあるのかを確かめるために使うだけでなく、新郎新婦のプロフィールを知ることもできるので、ほとんどの出席者が目を通すリーフレットである。日本では出席者の個性、アイデンティティーを表す名前を間違えることはタブーである。披露宴の席次表では、出席者への配慮として異体字への気遣いが驚くほどなされると知り合いのホテルマンから聞いたことがある。特に「ワタナベ」と「サイトウ」は要注意だそうだ。それゆえ、席次表には、「ご芳名お席順に失礼な点がございましたら慶事に免じご寛容の程お願い申し上げます」、「御席の不順御芳名に誤字がありましたら深くお詫び申し上げます」など、名前と席順に関しての失礼をわびる一文が添えられていることが多い。
小学生低学年まで理科という科目が苦手だった私に、「科学」の面白さを教えてくださったのが、小学4年生時担任だった大道淑文先生であった。大道先生は小学校の教員であり、植物学者でもあった。姫路科学館には大道先生が収集された多くの種類の植物が、いまでも収蔵されている(注5)。
大道先生は天気が良ければ教室での授業をやめ、たびたび私たち児童を近所の野山へ連れ出した。大道先生のところへ持って行けば、野山に生えているどんな植物でも、たちどころにその植物の名前と特徴を答えられた。モウセンゴケは葉の表面に生える繊毛から消化酵素を含む粘液を出し、その粘着力で昆虫を捕らえ、葉で巻き込み消化吸収する食虫植物だ(写真1)。自生しているモウセンゴケを大道先生と発見し、虫を捕らえている様子をはじめて観察したときの興奮は今でも忘れられない。
植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたNHKの連続テレビ小説「らんまん」が好評放送中だ。大道先生の机にはいつも『学生版 牧野日本植物図鑑』(北隆館、1974年)が置かれていた。大いに大道先生の影響を受けた私はその図鑑にすっかり心を奪われ、とりこになった。牧野博士による手書きの植物の絵は魅力にあふれ、学術的かつ芸術的であり、『学生版 牧野日本植物図鑑』は今もかわらず私の愛読書である(写真2)。
牧野富太郎博士は、「雑草という草はない」という名言で知られている。作家の山本周五郎がまだ雑誌記者であった頃、牧野博士を取材した。その際、「雑草」という言葉を口にした山本周五郎を牧野博士がたしなめた。「きみ、世の中に“雑草”という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という言葉が嫌いだ。みんなそれぞれ、松、杉、楢(なら)、楓(かえで)と固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが雑草だの雑木林だのと無神経な呼び方をする。もし君が、雑兵と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね」(注6,7)
牧野博士は同じく植物学者であった昭和天皇にも影響を与えた。「雑草」という言葉を使った侍従に対して、陛下は牧野博士の言葉を引用して「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決めつけてしまうのはいけない。注意するように。」とおっしゃったというエピソードが残っている(注8)。
日本人は決して多様性を嫌う国民性なのではなく、「一人ひとりがそれぞれ違っていること」を大切にする国民性なのだ!と今こそ胸を張りたい。
注1)名字由来ネット https://myoji-yurai.net/
注2)明治安田生命保険相互会社による調査結果 2018年8月 https://www.meijiyasuda.co.jp/profile/news/release/2018/pdf/20180808_01.pdf
注3)安岡孝一 「新しい常用漢字と人名用漢字─漢字制限の歴史」三省堂、2011
注4)現在では、日本人の氏に使える漢字は5万5271字(戸籍統一文字)、日本人の名に使える漢字は2999字(常用漢字+人名用漢字)が定められている。
注5)姫路科学館収蔵資料目録第2号 2013年3月https://www.city.himeji.lg.jp/atom/research/nature/mokuroku/catalog-HCSM02.pdf
注6)高知新聞記事「『雑草という草はない』は牧野富太郎博士の言葉」(2022年8月18日配信) https://www.kochinews.co.jp/article/detail/586935
注7)木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』実業之日本社
注8)ブリタニカ「【探究・知識を深める】雑草という名の草は無い」https://www.britannica.co.jp/blog/makinotomitaro/
◇
渡辺豊彦(わたなべ・とよひこ) 岡山大学大学院ヘルスシステム統合科学研究科教授。おしっこの専門家。排尿管理、尿路・性感染症、性機能、ロボット手術を得意とする臨床医。尿路感染症や下部尿路機能の診療ガイドラインの作成委員を歴任。管理職の経験をもとに、組織の中の多様な人間の行動についての経営学研究も行っている。岡山大学医学部卒、医学博士、経営学博士。1967年兵庫県姫路市生まれ。
職業柄、毎日多くの方々と接するが、ときおり珍しい聞き慣れない姓(名字)の方と遭遇する。私の友人の「真行寺」さんは、全国で約500人しかいない珍しい姓だ(注1)。ただ、彼の職業は住職ではなく、バリバリのビジネスマンなのだが、温厚な性格の彼と話をすれば、その名字の響きも手伝って何か功徳をいただいたような気になる。
日本人の姓の種類は10万種を数え、世界でもこれほど多い国は珍しいといわれている(注2)。人口が14億人を超える中国でさえ約4,000種、韓国は約300種と少ない。そのほとんどが1字姓であり、「金」、「李」、「朴」さんだけで全人口の45%を占める。韓国では儒教が影響し、同族意識が強く、同姓不婚の慣習もその一因であるかもしれない。日本は古来、「多様性」を受け入れ、文化、社会慣習において多様性が見出される。「姓」も例外ではない。
ただ私の「渡辺(ワタナベ)」姓は、「佐藤」、「鈴木」などに次いで、ランキング5位に入るほど日本の中では多い姓だ。全国に約119万人の「渡辺」さんがいるらしいが、岡山大学泌尿器科同門180人の中にも4人の「ワタナベ」がいる。
私が医師になった30年前の大学病院では、同じ診療科の中に同姓のドクターがいれば、年次順に、渡辺A、渡辺B、渡辺CとA・B・Cで区別され、呼ばれていた。あるとき、「“少女A”じゃあるまいし、犯罪者のようで嫌だ!」と訴えた先生がいた。以後、それまでの「渡辺B先生」からファーストネームで「豊彦先生」と呼ばれるようになった。最初は欧米人のようで気恥ずかしかったが、そのうちに慣れてしまった。
ただこの「ワタナベ」、「渡辺、渡邉、渡邊、渡部」が一般的だが、「ナベ」の表記は実にさまざまだ。「辺」「邉」「邊」を中心に、そのパーツが「方」か「口」か、「自」か「白」か、しんにょうの点は一つか二つかなど、幾通りもの組み合わせが存在し、「ナベ」の異体字は一説によると100種類以上もあるといわれている。なぜ、このようにたくさんの「ナベ 異体字」が存在するのであろうか?
かつて戸籍は手書きで記載されていたため誤字が多かった。また、偶然にも筆先から墨が垂れて「・」や(丶)が加わったり、「とめ」が「はね」になったりしたため新たな字体として登録されたなど、届け人の個性がにじみ出たものも多かったようだ。
1949(昭和24)年、内閣は法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で使用する漢字の範囲を示す目的で、1850字の漢字を「当用漢字字体表」に掲げ、その音訓、字体を定め、訓令・告示した。しかしながら戸籍制度をあずかる法務省はどうもこれに対し微妙な態度をとったようだ(注3)。
子どもの「名」に関しては使える字体を「当用漢字字体表」に制限するものの、「姓」に関しては「康熙字典」など漢和辞典に載っている漢字なら何でもOKにした(注4)。そのため同じ戸籍でも、親子の間で名字の自体が異なり、本家と分家とを区別するために、意図的に異体字を使用することもあった。漢字で表記される名前が自らのアイデンティティーを示す大切なものであるという思いと、その画数が運勢を動かす特別な力を発揮するという信仰が加わり、「ナベ」という文字一つとってもバラエティー豊かなものになったのであろう。
結婚披露宴に出席するゲストが受付を済ませて、最初に手に取るのが披露宴席次表だ。自分の席がどこにあるのかを確かめるために使うだけでなく、新郎新婦のプロフィールを知ることもできるので、ほとんどの出席者が目を通すリーフレットである。日本では出席者の個性、アイデンティティーを表す名前を間違えることはタブーである。披露宴の席次表では、出席者への配慮として異体字への気遣いが驚くほどなされると知り合いのホテルマンから聞いたことがある。特に「ワタナベ」と「サイトウ」は要注意だそうだ。それゆえ、席次表には、「ご芳名お席順に失礼な点がございましたら慶事に免じご寛容の程お願い申し上げます」、「御席の不順御芳名に誤字がありましたら深くお詫び申し上げます」など、名前と席順に関しての失礼をわびる一文が添えられていることが多い。
小学生低学年まで理科という科目が苦手だった私に、「科学」の面白さを教えてくださったのが、小学4年生時担任だった大道淑文先生であった。大道先生は小学校の教員であり、植物学者でもあった。姫路科学館には大道先生が収集された多くの種類の植物が、いまでも収蔵されている(注5)。
大道先生は天気が良ければ教室での授業をやめ、たびたび私たち児童を近所の野山へ連れ出した。大道先生のところへ持って行けば、野山に生えているどんな植物でも、たちどころにその植物の名前と特徴を答えられた。モウセンゴケは葉の表面に生える繊毛から消化酵素を含む粘液を出し、その粘着力で昆虫を捕らえ、葉で巻き込み消化吸収する食虫植物だ(写真1)。自生しているモウセンゴケを大道先生と発見し、虫を捕らえている様子をはじめて観察したときの興奮は今でも忘れられない。
植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたNHKの連続テレビ小説「らんまん」が好評放送中だ。大道先生の机にはいつも『学生版 牧野日本植物図鑑』(北隆館、1974年)が置かれていた。大いに大道先生の影響を受けた私はその図鑑にすっかり心を奪われ、とりこになった。牧野博士による手書きの植物の絵は魅力にあふれ、学術的かつ芸術的であり、『学生版 牧野日本植物図鑑』は今もかわらず私の愛読書である(写真2)。
牧野富太郎博士は、「雑草という草はない」という名言で知られている。作家の山本周五郎がまだ雑誌記者であった頃、牧野博士を取材した。その際、「雑草」という言葉を口にした山本周五郎を牧野博士がたしなめた。「きみ、世の中に“雑草”という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という言葉が嫌いだ。みんなそれぞれ、松、杉、楢(なら)、楓(かえで)と固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが雑草だの雑木林だのと無神経な呼び方をする。もし君が、雑兵と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね」(注6,7)
牧野博士は同じく植物学者であった昭和天皇にも影響を与えた。「雑草」という言葉を使った侍従に対して、陛下は牧野博士の言葉を引用して「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決めつけてしまうのはいけない。注意するように。」とおっしゃったというエピソードが残っている(注8)。
日本人は決して多様性を嫌う国民性なのではなく、「一人ひとりがそれぞれ違っていること」を大切にする国民性なのだ!と今こそ胸を張りたい。
注1)名字由来ネット https://myoji-yurai.net/
注2)明治安田生命保険相互会社による調査結果 2018年8月 https://www.meijiyasuda.co.jp/profile/news/release/2018/pdf/20180808_01.pdf
注3)安岡孝一 「新しい常用漢字と人名用漢字─漢字制限の歴史」三省堂、2011
注4)現在では、日本人の氏に使える漢字は5万5271字(戸籍統一文字)、日本人の名に使える漢字は2999字(常用漢字+人名用漢字)が定められている。
注5)姫路科学館収蔵資料目録第2号 2013年3月https://www.city.himeji.lg.jp/atom/research/nature/mokuroku/catalog-HCSM02.pdf
注6)高知新聞記事「『雑草という草はない』は牧野富太郎博士の言葉」(2022年8月18日配信) https://www.kochinews.co.jp/article/detail/586935
注7)木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』実業之日本社
注8)ブリタニカ「【探究・知識を深める】雑草という名の草は無い」https://www.britannica.co.jp/blog/makinotomitaro/
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渡辺豊彦(わたなべ・とよひこ) 岡山大学大学院ヘルスシステム統合科学研究科教授。おしっこの専門家。排尿管理、尿路・性感染症、性機能、ロボット手術を得意とする臨床医。尿路感染症や下部尿路機能の診療ガイドラインの作成委員を歴任。管理職の経験をもとに、組織の中の多様な人間の行動についての経営学研究も行っている。岡山大学医学部卒、医学博士、経営学博士。1967年兵庫県姫路市生まれ。
(2023年05月24日 16時03分 更新)