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岡山に残る全国最古の放送局(下)

丘の上に建つ初代岡山放送局=2022年1月21日東山公園より、一幡公平氏撮影
丘の上に建つ初代岡山放送局=2022年1月21日東山公園より、一幡公平氏撮影
放送局の鉄塔が見えていた方向を指さす湯浅吉江さん。自宅前で=2022年6月4日
放送局の鉄塔が見えていた方向を指さす湯浅吉江さん。自宅前で=2022年6月4日
「放送局通東町」の地名が記された地図 路面電車の停留所は「放送局筋」とある=「最新岡山市街図」(1953年発行)、岡山市立中央図書館蔵
「放送局通東町」の地名が記された地図 路面電車の停留所は「放送局筋」とある=「最新岡山市街図」(1953年発行)、岡山市立中央図書館蔵
1960年頃の湯浅さんの店の前に立つ夫の博之氏=湯浅吉江氏提供
1960年頃の湯浅さんの店の前に立つ夫の博之氏=湯浅吉江氏提供
開局間もない頃の岡山放送局=「NHK岡山放送局のあゆみ」(2005年刊)より
開局間もない頃の岡山放送局=「NHK岡山放送局のあゆみ」(2005年刊)より
山陽新報1931年2月3日版より岡山放送局場所選定の談話
山陽新報1931年2月3日版より岡山放送局場所選定の談話
放送機室内部 右奥の黒い機械が放送機(ラジオ第一用)=1960年ごろ、桑野洋氏提供
放送機室内部 右奥の黒い機械が放送機(ラジオ第一用)=1960年ごろ、桑野洋氏提供
初代岡山放送局南側 右側のひさしのついた「通用口」までが「放送機室」=2022年6月19日
初代岡山放送局南側 右側のひさしのついた「通用口」までが「放送機室」=2022年6月19日
村上裕康さん
村上裕康さん
 二回にわたって書いてきた、岡山市中区赤坂台にある“現存最古”の旧岡山放送局舎の話題。昭和6(1931)年に開局した場所は、標高20mの小高い丘の上だった。駅や県庁など主要な施設から離れ、急坂をのぼらないとたどりつけない立地はなぜ決まったのか。そこにはこの建物の持つ「今の放送局には存在しない、ある重要な機能」がかかわっていた。

 「我が家はかつて『岡山市放送局通東町290番地』で手紙が届いた」。旧局舎から北へ450m、門田屋敷の県道沿いに戦後嫁いできた湯浅吉江さん(94)は語る。自宅前を南北につなぐ道は“放送局通(ほうそうきょくどおり)”とよばれ、その名を冠した地名が記載された古い地図もある。おりしも配られてきた回覧板には「放送局通り東町町内会」の文字。由来となった放送局が昭和36年丸の内に移転し、さらに駅元町に再移転したあとも、町内会はなつかしい名称をとどめている。

 県道と直角に交差する路面電車にも“放送局筋”という停留所があった。放送局の職員や出演者たちは、ここで下車し通りを南に向かって歩いた。湯浅さんの家は平成の時代まで酒・しょうゆの小売店「熊屋」を営んでいた。仕事帰りに立ち寄るNHKの職員はいつもパリッとした背広姿で「洗練された都会人の雰囲気」がしたという。暑い夏も雪の冬も多くの人が上り下りした丘の上の放送局。家から見える二本の鉄塔は、町の象徴であり、名物だった。

 なぜ、初代放送局は、中心部をはずれた高台の上という一見不便な場所に作られたのか。それはこの建物が、「電波を出す」という現在の放送局には無い機能を併せ持っていたからである。放送局というと、頭上に高い鉄塔を乗せ、そこから波状の“電波”が発射される姿を思い描く人も多いと思うが、いまの放送局からはテレビやラジオの電波は出ていない。例えば岡山県内向けの“テレビ電波”だと、NHK・民放ともに児島半島の金甲山の上にある「放送所」から出されているからである。現在放送局で行われているのは番組・ニュースなどコンテンツを“作る”作業で、放送草創期には「演奏」機能とよばれていた役割だけである。電波を出す「放送」機能は、金甲山など高所の、それに特化した施設が担っているため、いま放送局は取材や出演者の出入りに便利な町の中心部に建てることができる。これはテレビ放送が本格化した昭和30年代以降の傾向で、NHKもテレビ時代に対応した放送会館を丸の内に新築して移転した時期に、テレビは金甲山・ラジオは干拓地の広がる児島郡藤田村に放送所を新設して、「演奏」「放送」機能を分離している。

 ところが初代岡山放送局が建てられた昭和初期には、地方の放送局は「演放一体」が定型だった。従って電波を広く行き渡らせることができる場所を最優先に立地が決められ、この赤坂台の上となったのである。開局時の新聞には場所選定に尽力した大阪放送局の技術部長の談話が載せられ、「放送局の設置点としては上等な方」と記してある。岡山の6年前、日本で最初に開局した東京放送局も海抜26mの愛宕山という高台の上にあった。

 現存する初代岡山放送局の建物には、「演放一体」だったことを示す場所がある。玄関を入った左側、スタジオの南向かいの広い部屋はかつて「放送機室」と呼ばれていた。「放送機」とは、音声を500wなど出力の大きな電波に変換する「放送」機能の心臓部のような機械のこと。この部屋にはラジオ第一用と第二用の二台の放送機が設置され、常に技術職員が待機していた。建物の南面には大きな機材を搬入出した「通用口」の跡も残る。夜を徹して放送機の監視に当たってきた夜勤の職員は、朝、火入れをしてニュースを送出したのち、ここで遅い朝食をとった。眼下には岡山平野が広がり児島半島の山々が見渡せる。雄大な風景を見ながら一息ついたことだろう。建物と、そして立地に初期の放送局の特徴が残っている。

 開局以来30年が経ち、NHK岡山放送局が丸の内に移ると、鉄塔は撤去され建物は市に移管され、昭和41年から「青年の家」別館として使われることになった。その際に放送機室は広さを生かして「調理実習室」に改造された。青年の家が廃止になったあとは、地元赤坂台町内会がこの部屋を集会所として使っていたが、昨年4月から老朽化により外部の人の出入りが禁じられた。まもなく100年を迎える放送の歴史を伝える建物は、今日も人知れず丘の上にたたずんでいる。

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 次回からは、大規模改修が進む「岡山城」の史跡としての保存のあり方についてお伝えする予定です。

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村上 裕康(むらかみ・ひろやす)1989年日本放送協会にディレクターとして入局。大津・山口・秋田などに赴任。東京番制局では主に教育番組を制作。2015年出身地の岡山局へ。「ブラタモリ」「所さん!大変ですよ!」などの全国放送を岡山の話題で制作するほか、「駅守(えきもり)」「いにしえピアノ」など県内ローカルシリーズを開発。2021年定年で退職。産業遺産学会員。1965年生まれ。早大教育学部卒。

(2022年06月21日 11時35分 更新)

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