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宇田川家三代墓所(泰安寺)

泰安寺門前(宇田川家墓所の標柱も立つ)
泰安寺門前(宇田川家墓所の標柱も立つ)
泰安寺表門
泰安寺表門
泰安寺本堂
泰安寺本堂
宇田川家三代墓所
宇田川家三代墓所
阿梶と轍四郎の墓
阿梶と轍四郎の墓
多磨霊園内の墓所旧観
多磨霊園内の墓所旧観
泰安寺での開眼法要
泰安寺での開眼法要
小島徹さん
小島徹さん
 前回は、私のかつての職場の紹介でしたので、洋学関係の史跡紹介というコラム本来の趣旨に沿うものとしては、今回が初めてです。初回は、津山ゆかりの洋学者の中でも、とりわけ著名な宇田川家三代の墓所をご紹介します。

〇泰安寺にある墓所
 宇田川家三代の墓所は、現在、津山市西寺町の泰安寺にあります。このお寺は、津山藩主松平家の菩提寺として知られる浄土宗寺院です。その境内は県指定の史跡、本堂と表門は同じく県指定の重要文化財です。その表門をくぐって境内に入り、本堂の前を通って境内南側の墓地へと進むと、その中ほどに宇田川家三代墓所があります。門前には標柱があり、墓地内にも案内表示が施されていますので、初めての人でも迷うことなく、たどり着けるはずです。

 現地に着くと、西向きに建てられた黒みを帯びた墓石が4基並んでいます。そのうちの3基は、ほぼ同じ高さ・大きさに揃えて造られた、四角柱の墓石で、左端の1基のみは他の3基より小ぶりの四角柱の上に笠を載せた形状です。右から順に、玄随・玄真・榕菴、そして笠付きのものは榕菴夫妻の墓です。この4基の墓石は、元からこの場所にあったのではありません。かつてはどこにあり、どういう事情でここに移されてきたのか、その経緯について説明しましょう。

〇宇田川家の菩提寺
 歴代が洋学を家業として継承・発展させ、江戸時代後期に大きな活躍をした宇田川家は、江戸詰の津山藩医ですが、元は江戸の町医者で、名医として評判だった道紀(どうき・玄随の父)が津山藩主松平家に召し抱えられたのです。ですから、玄随以降の三代も常に江戸詰で、藩主の参勤交代のお供をして津山に来ることはあっても、長期間の滞在はせず、日々の生活や洋学研究の拠点は、あくまで江戸だったのです。こうした事情から、宇田川家の菩提寺は、浅草にあった浄土宗寺院の誓願寺であり、墓所も誓願寺内の塔頭(たっちゅう)の一つの長安院にありました。

〇多磨霊園への改葬
 しかし、関東大震災によって誓願寺はことごとく焼失してしまい、その当時開園したばかりであった多磨霊園の近くに寺は移転し、宇田川家の三代も昭和4(1929)年多磨霊園に改葬されました。いまの墓石に見られるひび割れや欠けは、震災の痕跡であり、また台石も元は2段あって、下の1段はあまりの重さに運ぶのをあきらめたのだそうです。本来ならば、それで終わりのはずなのですが、ちょうど震災から改葬に至る時期、宇田川家では当主の男性が相次いで他界する悲運に見舞われます。洋学者三代の直系子孫としての宇田川家は、戸籍上は消滅してしまい、昭和30(1955)年以降、宇田川家の血を引くのは、他家に嫁いだ小森雅江さんお一人のみとなっていました。そうした事情から、宇田川家の墓所の管理は、小森さんが続けていましたが、関東ではない遠隔地のご在住であり、将来的な墓所管理に不安を持っておられました。それは、ご子孫が絶えて管理者不在となると、最終的には霊園を管理する東京都によって砕石処理されてしまうからです。

〇津山への移転・改葬
 昭和63(1988)年に開催された、津山洋学資料館の開館10周年記念式典後の懇親会の席上で、このことが話題にのぼったのを機に、小森さんも三代の墓所を津山へ移転することに前向きになられました。当初は、市の事業としての移転が検討されましたが、ちょうど昭和天皇のご危篤から崩御に至る時期に重なり、大喪の礼をめぐって政教分離の原則に抵触するかしないかと議論が高まっていたこともあって、たとえ洋学者ということで文化財的価値が認められるとしても、一個人の墓所を公費で改葬することには、少なからず異論が出かねません。そこで、幅広く一般市民の賛同と浄財を得て移転・改葬できれば、津山の洋学者の認知度を高め、顕彰活動の活発化も期待できることから、津山洋学資料館友の会を中核として「宇田川家三代顕彰実行委員会」を結成し、市民からの募金によって移転・改葬事業を推進することになりました。

 募金活動の結果、400万円を超える貴重な浄財を集めることができました。改葬場所については、幕末~明治初期に洋学四代目の宇田川興斎が藩命で津山へ転居中は泰安寺に寺替えし、当時相次いで亡くした阿梶(おかじ)・轍四郎(てつしろう)という妻子の墓も泰安寺に存在することや、江戸(東京)の菩提寺の誓願寺と同じ浄土宗の寺院であって、藩主松平家の菩提寺でもあることなどから、泰安寺に決まりました。お寺のご理解・ご協力も得られ、墓地の中央に改葬場所が確保され、元からある阿梶・轍四郎の墓も、三代の墓の側に並べられることとなりました。移転・改葬の作業は、平成元(1989)年10月上旬に実施され、誓願寺のご山主による御霊(おしょう)抜きの後、津山から出向いた石材店によって、墓石は梱包のうえトラックで運搬されました。また、改葬に当たっては、掘り起こした遺骨の鑑定を東大医学部に依頼しました。残念ながら玄真の遺骨は見付かりませんでしたが、玄随および榕菴夫妻の骨が相当量残っていました。遺骨の鑑定結果については、洋学資料館が発行している研究誌『一滴』創刊号や、墓所移転事業の報告書などに詳しく掲載されていますが、脚部の骨の太さから、玄随・榕菴ともに相当な健脚であったと推察されます。玄随は蘭学研究のため各地へ出向き、榕菴は植物採集のため山野を駆け巡ったことが、足の骨に痕跡として残ったものでしょう。

 津山への墓所移転・改葬作業は滞りなく進められ、同年11月12日、泰安寺において開眼法要と披露式典が、盛大かつ厳かに執り行われたのです。式典後の夕方には、移転事業に関わられた研究者の方々を講師にお招きして、記念講演会も開催されました。こうして、宇田川家三代の墓所が津山で祀られることとなったのです。彼らの墓は指定文化財ではありませんが、洋学の歴史の上では記念碑的な意味を持つ、貴重な存在です。そうした貴重なお墓に、津山でお参りできることにも感謝しつつ、手を合わせたいと思います。

     ◇

小島徹(こじま・とおる)1996年、学芸員として津山市に採用され、郷土博物館に配属。その後、洋学資料館へ異動、郷土博物館への復帰を経て、2020年から現職。専門は日本近世史で、津山藩を治めた森家・松平家の歴史や、津山が輩出した洋学者たちの経歴を調査し、紹介する仕事に取り組んでいる。1970年、愛媛県生まれ。広島大文学部卒。

(2022年05月27日 12時00分 更新)

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