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秀吉の常山城攻略 陣立て文書確認 滋賀、軍事作戦の一端伝える

羽柴秀吉が常山城攻めに向けた陣立てを記した文書。具体的な兵の人数まで確認できる
羽柴秀吉が常山城攻めに向けた陣立てを記した文書。具体的な兵の人数まで確認できる
秀吉の常山城攻略 陣立て文書確認 滋賀、軍事作戦の一端伝える
 戦国時代末期の織田信長による中国攻めで、織田勢を率いた羽柴(豊臣)秀吉が、毛利氏が支配する瀬戸内海航路の要衝、常山城(玉野市宇藤木など)の攻略を目指し、自軍の陣容を記した文書が26日までに、滋賀県長浜市で確認された。毛利氏との直接対決に向け、秀吉が行った具体的な軍事作戦の一端を伝える貴重な史料として注目される。

 文書は縦30・4センチ、横46・8センチで、中国攻めのクライマックス・備中高松城水攻め(1582年5~6月)間近の同年3月17日付。加藤光泰、仙石秀久ら秀吉配下の武将名とそれぞれが率いる人数が記され、秀吉の花押も確認できる。冒頭には「はまて(浜手)の衆」とあり、編成されたのは水軍で、文書はいずれかの参加武将に送ったものとみられる。

 中国攻めでは秀吉が、山陰、山陽両方面から中国地方の覇者毛利氏の勢力圏に侵攻し、山陽では備前の戦国大名・宇喜多氏の協力で作戦を進めた。

 常山城を巡っては、信長の一代記「信長(しんちょう)公記」の中に、信長の五男で秀吉の養子になった秀勝の初陣として備前国児島の敵城を攻撃する旨の報告が秀吉からあったことが記されている。この敵城が常山城と考えられているが、他に資料がなく、実際に攻城戦があったかどうかは不明だった。

 文書を調査した長浜市歴史遺産課は「かなり具体的な計画が記され、軍勢の出動が行われた事実が裏付けられた」とし、「秀吉が高松城をはじめとする備前・備中境の城を攻撃できた背景には常山城攻略による周辺の制海権掌握があり、(秀吉の天下取りの契機である)中国大返しにもつながった」とみている。

 一方で調査に協力した倉敷市歴史資料整備室の畑和良専門員は「この文書だけで実際の戦闘行為の有無までは判断できないが、少なくとも出陣を詳細に計画したことは証明される重要な発見」としている。

 文書は長浜市在住の歴史愛好家の男性が、昨年末にネットオークションで入手。照会を受けた同課が紙質や花押から秀吉のものと判断した。

(2021年08月26日 21時39分 更新)

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