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【記者が行く】「元日登校」の歴史は? 昭和38年にはまだあった記録

勝間田小に保管されている旧勝南高等小の学校日誌。明治27年元日に式典を行ったとの記述が確認できる
勝間田小に保管されている旧勝南高等小の学校日誌。明治27年元日に式典を行ったとの記述が確認できる
 小学校の下級生だった頃、1月1日に登校していた記憶があります。学校に行ってミカンをもらったことくらいしか覚えていませんが、「元日登校」はいつ何のために始まり、いつなくなったのでしょう。〈岡山市北区、男性(62)〉

 小学校の元日登校。20代の記者はもちろん体験したことはないが、実は本紙の読者投稿欄「ちまた」では過去、子どもの頃の正月の思い出として何度か話題になっている。

 「講堂に1年生から6年生までが集合し、君が代斉唱の後、校長先生の訓示があった」「先生たちからミカンを頂いた」。今年も複数の70代の読者が投稿を寄せていた。

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 それにしても、元日に登校する理由はなぜか。文部科学省に尋ねたところ、教育課程課の担当者は「文部省(当時)が戦前、元日をはじめとした祝祭日は学校で式典を開くよう定めていた」と説明してくれた。

 戦前といっても、話は明治時代にまでさかのぼる。きっかけは明治18(1885)年に発足した我が国最初の内閣・伊藤博文内閣で、初代文部相に就いた森有礼(1847~89年)が出した指示だったとされる。森は数々の教育制度改革を進めたが、特に教育による愛国心の育成を重視し、その一つの手段として祝祭日には学校行事として祝賀儀式を行うよう求めた。明治20年ごろのことという。

 森の死後、明治23年に天皇名で「教育勅語」が発布されると、文部省は教育の基本理念として勅語の謄本(写し)を全国の学校に配布。「小学校祝日大祭日儀式規定」なども制定され、祝祭日には学校で御真影(天皇、皇后両陛下の写真)への拝礼や勅語奉読などの儀式を行うよう規定された。

 こうして元日登校は全国に普及。岡山県内でも明治20年代に各地で始まったとみられる。

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 この規定は明治から大正、さらに昭和へと時代が変わり、昭和20(1945)年にわが国が戦争に敗れて教育の方針が大きく転換するまで続いた。県内では敗戦翌年に各学校が御真影と勅語の謄本を県に返還したとの記録が残されている。

 ただ現実には、昭和30年代生まれの質問者の男性が体験したと話すように、元日登校はその後もしばらくは習慣として行われていたようだ。今回の取材では、少なくとも昭和38年にはまだあったことを示す記録が見つかったほか、昭和40年に岡山市内で実施された元日登校について触れる本紙の記事も確認できた。

 元大安寺高校長で県立博物館長も務めた友野澄雄さん(91)は「戦後は各学校の判断で行っており、特に地方では長く続けていた所もあったのでは」と推測。自身も元日に登校していたと振り返り「寒くて外出するのは嫌だったが、お祝いで先生からミカンをもらうのが楽しみだった」と懐かしそうに語った。

実際の登校日の様子は 勝央・勝間田小に当時の日誌

 実際の登校日の様子はどうだったのか。県教委や県内自治体の教委、学校などに問い合わせてみたが、「分かりません」「詳しい資料がありません」との回答ばかり。そんな中、勝央町立勝間田小(同町勝間田)に当時の様子を記した「学校日誌」があるとの情報を入手し、早速、現地に向かった。

 同小には、児童の出席状況や学校行事などを記録するための日誌が長年にわたって保管されていた。旧高取小や旧勝南高等小といった前身時代を含め、その数は明治以降の約120冊に上る。

 例えば旧勝南高等小の明治27(1894)年元日のページ。〈月曜日 雪〉〈午前十時校長教員(中略)及生徒着席敬礼〉〈君が代二回合唱〉〈両陛下ノ万歳ヲ祝シ奉リ〉…。筆で書かれた文字からは、雪の中を登校し、君が代斉唱など式典に臨む子どもたちの姿が目に浮かぶ。

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(2021年03月03日 05時00分 更新)

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