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夏休みの宿題が私の人生を変えた 半世紀に及ぶ古墳探訪のきっかけ

書き上げた標柱を抱えて、得意気な表情をする中学生の筆者=1964年撮影
書き上げた標柱を抱えて、得意気な表情をする中学生の筆者=1964年撮影
2011年秋、吉備路の一角に築かれた「創山(つくりやま)古墳」。その標柱に古墳名を記す大役を仰せつかった
2011年秋、吉備路の一角に築かれた「創山(つくりやま)古墳」。その標柱に古墳名を記す大役を仰せつかった
 2018年5月に「『桃太郎伝説』の生まれたまち おかやま」というストーリーで岡山県南の代表的な古墳や神社が「日本遺産」に認定されました。中学校以来の古墳マニアで、60年近くにわたり趣味の古墳探訪を続けてきた私としては、地元の古墳にスポットライトが当たるのはうれしい限りです。私の古墳探訪のきっかけは中学校2年生、1963年の夏でした。

 夏休みが迫る頃、社会科の自由研究の宿題が出ました。テーマは何でもOKというので、授業で習ったばかりの古墳でも調べようか…と考え、夏休みに入るや連日のように市内や近郊を自転車で走り回ります。まぶしい太陽。ほこりっぽい田舎道。むせ返る夏草の匂い。蝉時雨の雑木に覆われた墳丘。ズボンの汚れも蛇や虫の存在も気にせず、われ先に潜り込む横穴式石室。まるで黄泉の国のような薄闇の空間の、ひんやりした土の匂い…。

 その夏に探訪した古墳は、造山・両宮山・神宮寺山・湊茶臼山など近在の大型前方後円墳や、こうもり塚(当時は黒媛塚と呼ばれた)や牟佐大塚、そして中学校の裏山(操山山塊)に点在する沢田大塚や萩の塚など、大小さまざまな横穴式石室でした。

 初めて訪ねた造山古墳では全長350mという途方もない量感に衝撃を受け、前方後円形という完璧に美しいフォルムにも感嘆しました。こうもり塚の開口部は当時まだ狭く、羨道(えんどう=横穴式石室と外部とを結ぶ通路)の暗闇の中を腹這いで下りましたが、懐中電灯にぼんやり浮かんだ玄室の壁や天井石の圧倒的な存在感・重厚感に言葉を失ったのを覚えています。こうしていくつかの古墳をめぐるうち、死者の世界への畏怖(いふ)と、胎内回帰の甘美な夢想をかき立てられた14歳の少年は、まさに完治不能の「古墳症」に感染したのでした。

 夏休みが明けて提出したのは、大きな模造紙です。マジックインキで地図を描き、写真部長だった私が撮影したモノクロ写真を貼り付けて、各古墳のデータや感想コメントを書き添えた「岡山の古墳マップ」でした。このわれながらの大労作レポートは、社会科の先生に大いにほめられ、模範的提出物としてしばらくの間、教室前の廊下に掲示されたものです。その達成感と晴れがましさも古墳探訪がライフワークとなった原因のひとつでしょうか。

 そういえば、今と違って資料の少なかった当時、探訪先は「史跡」に指定された著名な古墳がメインでした。国指定史跡は別格として、県指定や市町村指定レベルの古墳には、たいてい「史跡○○古墳 ○○教育委員会」と書かれた木柱が立っていたものです。高さ2mほどの白ペンキ塗りの角材に、黒ペンキでくっきり記された古墳名。今ではほとんど見かけなくなりましたが、かつて墳丘の裾や石室の開口部あたりに直立していた白い標柱は、私の目には凛々(りり)しく素敵に映りました。標柱自体が古墳のシンボルのようにさえ思えたのです。

 私はその白い標柱が欲しくてたまらなくなりました。自宅の庭に立てて毎日眺められたら、どんなに幸せなことだろう。引き抜いて持ち帰りたいくらいだけど、そんなことが許されるはずもないし…と悩んでいたある日、天啓が訪れます。そうじゃ、自作すりゃぁええんじゃ! たまたま庭の隅に積んであった白塗り角材2本を父親からもらい受け、意気揚々とマジックインキで「箭田大塚古墳」「神宮寺山古墳」と記しました。そして庭の真ん中に標柱を並べて立て、毎日うっとりと眺め暮らしたものです。

   ◇

青山 融(あおやま・とおる) 岡山弁協会会長。映画「バッテリー」「でーれーガールズ」などで方言監修、指導を担当。岡山が生んだ名探偵・金田一耕助、古墳、路上観察など興味の的は多岐にわたる。雑誌「月刊タウン情報おかやま」「オセラ」の編集長など歴任。著書に「岡山弁会話入門講座」「岡山弁JAGA!」「岡山弁JARO?」など。東京大法学部卒。1949年、津山市生まれ。

(2020年08月01日 10時31分 更新)

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