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戦時中に幻の「弾丸列車構想」 元岡山市長の資料8点を初公開

弾丸列車構想を引き継ごうと岡山急行電気鉄道が作製した路線予測図
弾丸列車構想を引き継ごうと岡山急行電気鉄道が作製した路線予測図
 政府が戦時中に進めていた東京―山口県下関市間の高速列車整備計画。“弾丸列車構想”とも呼ばれたこのプランは戦況悪化で頓挫したが、中継地の岡山県内では戦後に市民有志が旅客列車として実現させようとする動きがあった。それを裏付ける路線図や会社設立などの資料が岡山シティミュージアム(岡山市北区駅元町)の企画展「鉄道のまち おかやま」で公開されている。

 弾丸列車構想は1939年、軍事輸送を目的に動き出した。岡山県内では岡山市など南部を通過し、現在のJR大元駅(同市)辺りに「新岡山駅」を建設、周辺も新しい街の玄関口として大規模区画整理をする案が練られていたという。市役所が戦後、同駅にほど近い現在地に移転したのも、その影響とされる。

 企画展では、構想の引き継ぎに力を注いだ元岡山市長(1951~55年)の故・横山昊太(こうた)氏の所有資料8点を初めて公開した。横山氏が発起人代表として地元財界人や役所関係者とともに55年ごろ立ち上げた「岡山急行電気鉄道株式会社」の会社要項は、路線の整備計画や創立時のメンバーを載せている。

 同社が作製した路線予測図も展示。笠岡市から倉敷市玉島、岡山市街地南部、同市西大寺地区などを経由し、兵庫県赤穂市まで延ばすルート案を赤い太線と点線で記している。

 同社が運輸省(現国土交通省)に継続的に提出していた工事施行の許可申請書のほか、72年6月に申請を取り下げたことが分かる書類もある。同年3月に山陽新幹線が岡山まで開通したことが構想断念の決定打になったとみられる。

 岡山シティミュージアムの飯島章仁館長補佐は「弾丸列車構想は幻に終わったが、戦後の岡山市街地の形成に少なからず影響を及ぼした。終戦後に先人が大きな夢を抱いて活動していたことを感じてほしい」と話している。企画展は8月2日まで。

(2020年07月25日 18時49分 更新)

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