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(9)思い出編 (2)美術監督山本二三さん 入念にロケ、リアリズム追求

「火垂るの墓」で美術監督を務めた山本二三さん。「高畑監督の絵画に対する知識はずば抜けていた」と振り返る
「火垂るの墓」で美術監督を務めた山本二三さん。「高畑監督の絵画に対する知識はずば抜けていた」と振り返る
神戸ロケでの写真(右)と、それを基に描かれた「火垂るの墓」のレイアウトやセル画など。「高畑勲展」のため山本さんが提供した
神戸ロケでの写真(右)と、それを基に描かれた「火垂るの墓」のレイアウトやセル画など。「高畑勲展」のため山本さんが提供した
 「木賃宿って名前の意味分かりますか」。高畑勲さんと大阪・西成の安宿に泊まった際に聞かれました。「自炊する薪代だけで泊まれる宿ですね」って答えると、知っていて当然という顔でうなずかれました。

 高畑作品に美術として初めて参加した映画「じゃりン子チエ」(1981年)。当時、私は27歳で高畑さんが45歳。舞台となった大阪を、2人でロケハンしたことがとても思い出深いです。

 木賃宿を拠点に、ホルモン焼き屋などの取材を重ね、下町の雰囲気を感じ取ったんです。縁日の屋台や店の看板、ポスターまで入念に調べました。通天閣周辺や天王寺で写真を撮っていたら、住民に怒鳴られたり松葉づえでつつかれたりと怖い思いもしましたが、今では笑い話です。

 原作に古い木造家屋の町並みが多く登場するので、ロケは大いに役立ちました。ラフで素朴な漫画の絵を生かすため、これまでにない水彩風の手法を用いましたが、高畑さんとは屋根瓦の描写で盛り上がりました。「昔の瓦は焼く温度の違いや再利用でモザイクのような色合いになっているんです」と指摘され、それを実際に表現すると、おもしろい雰囲気に仕上がりました。

 忘れられないのは、木賃宿での夕食に高畑さんからコッペパンと牛乳を差し出されたことです。せっかく“食い倒れの街”に来たのに、と思っていると「映画にお金をかけるので、外食は控えましょう」と。大監督なのにおごることなく、素晴らしい人だと痛感しましたよ。共同風呂に一緒に入った時、背中を流してあげればよかったなあと、少し後悔しています。

 続く「火垂(ほた)るの墓」(88年)では美術監督を務めました。依頼を受けた際、実際に戦争を体験している先輩方に任せた方がいいと伝えたのですが、高畑さんから「体力がある若いあなたならできる」と励まされました。経験の浅い私では、製作現場は大変になると分かっていたと思うのですが大抜てきしていただき、私も全力で応えようと思ったんです。

 ロケでは高畑監督らと神戸や西宮一帯を細かく取材しました。杉皮葺(ぶ)きの壁など、戦前戦中の雰囲気に近い建物を見つけることもでき、大きな成果となりました。監督は一緒に歩き回りながら、短編の原作からどう物語を膨らませようか、常に考えていたようでした。

 製作に入って、空襲の焼け跡が思うように描けず苦しんでいた時、岡山空襲の体験などを基に助言してもらいました。自分なりに焼け出された人々の気持ちが少し理解でき、なんとか描ききることができました。

 作画作業は遅れ気味でしたが、高畑さんは「時間をかけてでも良いものを作る。後々までずっと残る作品になる」と周囲に話してくれていました。結果的にそうなりましたよね。高畑さんの先見の明と、この作品に対する強い思い入れを感じました。原作者の野坂昭如さんも、完成した映画を見て大変感謝していたようです。

 現地での見聞や体験を存分に生かし、アニメーション表現ならではのリアリズムを宿すのが高畑監督流の演出です。「君の絵にもリアリズムがある」と言ってもらえて、私自身大きな励みになりました。歴史に残る素晴らしい作品に起用していただき、大変感謝しています。

 やまもと・にぞう 1953年、長崎県五島市生まれ。中学卒業後、岐阜県の工業高校で建築を学び上京。美術系専門学校在学中からアニメの背景画の仕事を始める。宮崎駿監督の「未来少年コナン」で美術監督を務め、スタジオジブリでは高畑作品以外に「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」などを手掛けた。特に迫力ある雲の描き方はファンの間で「二三雲」と称される。埼玉県飯能市在住。

(2020年04月23日 08時05分 更新)

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