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映画と麻雀とバイトに明け暮れて 岡山大学映画研究部の思い出(1)

1979年ころのサークルボックス前で、当時の映画研究部のメンバーと。左から4人目が、まだ髪の毛フサフサで、松田優作の髪型に憧れていたボク

 先日、1974年入学以前の岡山大学映画研究部のOB会があり、1977年入学のボクは特別枠で参加させてもらった。諸先輩方の話を聞くうちに、記憶が曖昧なことがあまりに多く、これは記憶が少しでもはっきりしているうちに、自分たちの所属していた1977年から81年までの出来事を、一度まとめておくことが必要なんじゃないか、と思った。

 そこで、わがヒーローの阪神タイガース田淵幸一について書く予定を変更して、60年の人生で最も楽しかった1977年から1981年までの、映画と麻雀とバイトに明け暮れた日々について書くことにした。

 1976年のある日、予備校(岡山学院、現在の岡山進研学院)でも落ちこぼれだったボクは、気分転換のために、徒歩で十数分の岡山大学の学生食堂に昼ごはんを食べに行った。食堂の横の学館ホールでその時に上映していたのが、映画研究部主催の「藤田敏八監督特集」の中の1本『八月の濡れた砂』だった。あのTBSラジオの深夜放送「林美雄のパック・イン・ミュージック」で何度も聴いていた、あの石川セリの主題歌が流れる伝説のラストに胸を熱くした。

 ビデオの普及していない時代、「こんな方法で自分の見たい映画を見ることが出来るんだ! よし、絶対に映画研究部に入って、見たい映画を上映してやるぞ!」と決心した。

 そのモチベーションが功を奏したのか、運良く合格。そして、入学式当日に早速、憧れの映画研究部のドアを緊張しながらノックした。サークルボックスは縦長だった。中央に木製の長い机があり、その両脇に長椅子が壁に備え付けられていた。

 入ったとたんに、数人いた諸先輩の視線がこちらに向けられた。「映画研究部に入りたいんですけど」と言うと、みなさんの表情が途端に優しくなった。歓迎された。それまでの緊張がとけて、何とか自己紹介をすることが出来た。思い切ってドアに一番近い先輩に声をかけた。それが、今後のボクの生活を変えることになる4年生のWさんだった。とても優しい先輩だった。

 Wさんは、洋画通だった。ここぞとばかり、自分がどんな映画が好きで、どんな俳優が好きなのかをしゃべりまくった。今まで、映画についてのディープな会話が出来る人が周りにいなかったので、本当にうれしかった。

 そして、入部した当日に、意気投合したWさんの下宿にお邪魔した。岡山大学のシンボル、時計台のある図書館の裏だった。塀を越えるとすぐのところに、Wさんの下宿「錦荘」はあった。

 アラン・ドロンが好きで、ちょうどその頃公開された『ブーメランのように』を、2人で熱く語った。そうしているうちに、「飲み物を入れてあげよう」と言って、お湯で溶かしただけの「クリープ」を飲ませてもらった。美味しかった。以来、「ホット・クリープ」は、コーヒーが買えない時の貴重な飲み物になった。

 Wさんの下宿には、何とテレビも冷蔵庫もあった。当時の下宿には、電化製品と呼ばれるものは、電気ポット、コタツ、ラジカセ、扇風機ぐらいしかないのが普通だった。テレビや冷蔵庫がある快適な下宿は、貧乏学生のターゲットにされ、またマージャンの格好の場所になったが、Wさんは、マージャンをやらなかったので、その洗礼からは逃れていた。そんなWさんの下宿に憧れた。

 ボクは当時、総社から吉備線で通学していた。何と最終便が21時15分だった。これでは、楽しい映画研究部活動もナイトライフも、映画の最終回、試写会も行けない。というわけで、親を「1時間目の授業に間に合わないので、下宿させてくれ」と説得し、人生初の一人暮らしを入学から半年後に始める。

 大学が斡旋してくれた下宿は、53号線から岡山大学に入る道路の角にあった酒屋の裏だった。古い一軒家に何人か共同で住んでいた。家賃5千円。風呂もない。トイレは外のポッチャン式だけ。そんなところで大をする勇気はなく、いつも歩いて数分の、農学部のトイレまでガマンして行っていた。

 風呂はWさんの下宿の近くにある「半田山温泉」という銭湯まで、週に数回行った。毎日入るのは贅沢だと思っていた。食べるのが優先だった。その銭湯の近くにお好み焼き屋さんがあって、いつも「三つ玉の焼きソバ」を注文していた。タライのような巨大な器に、うず高く盛られた焼きソバを食べるのが至福の時間だった。お金がないときは、その1食で翌日の夕方まで持たせることもあった。

 そして、この下宿で半年我慢して、Wさんが卒業したあとの、憧れの下宿に、ボクは3年住むことになる。四畳半・風呂なし、トイレ共有で共益費込み1万円。その1万円だけは親に出してもらい、生活費はバイトで稼いだ。

 人生初めてのバイトは、高島屋配送センターでの梱包作業だった。次が交通量調査。これはしんどかった。柳川交差点付近に座って、一日中ひたすら車の数をカウントするという想像を絶する単純作業。昼食はその場所で、通りすがりの人々の視線を浴びながら食べた、その恥ずかしさは、未だに忘れることが出来ない。

 その後は、楽な家庭教師、映画館のもぎりが中心になっていった。最初の家庭教師のバイトは、小学校と中学校の恩師である、詩人のなんばみちこ先生に紹介いただいた、足守のお寺の息子さん。足守駅まで車で迎えに来ていただいた。そこから山を二つ越えたところに、そのお寺はあった。宗教関係の大学への進学希望だった息子さんを、同時に2人教えることになった。ところが、大学受験用の勉強しかしてこなかった弊害で、さっぱり分からん。

 それでも何とか2年間お世話になった。週2回、晩ごはんとデザート付きでひと月1万円だった。バイト代は安かったが、晩ごはんで栄養を補給出来たので、満足だった。

 映画館のもぎりは以前に書いたように、「岡山にっかつオスカー」の初代バイトで、他の映画館に比べて、好待遇だった。

 スポットの条件の良いバイトにも飛びついた。忘れられないのは、某歯磨きメーカーのバイト。内容は聞かされず、山陽放送のロビーに集合だった。てっきり放送関係のバイトだと思った。ところが、某歯磨きメーカーの新製品を、薬局にお客さんのふりして入れてもらう、という嫌なバイト。ボクは、奉還町にあった数軒の薬局を任された。

 「すみません、新聞広告で見たこの歯磨き粉が欲しいんですけど、ありますか? なければ、入れておいてほしいんですけど。また来ますね」といったやり方。かなり演技力を要求されるバイトだった。確か10軒ぐらい廻るように指示されていたけど、最初の2軒で嫌になり、残りは訪問したことにしてごまかした。だって、証拠も何もないんだから、ぜったいにバレないしね。

 新しい下宿「錦荘」は天国だった。トイレはボクの部屋のすぐそばにあるし、銭湯まで近いし、何よりキャンパスへは、塀を乗り越えればすぐだ。ゼミ以外の授業にはほとんど出ていなかったので、あまり関係なかったけど。清水記念体育館の向こうにあるサークルボックスまでも、自転車ですぐだった。

 当時、岡山大学のキャンパスは、北海道大学、筑波大学に次いで全国第3位の広さだった。だから、移動には自転車が必須だった。キャンパスは、盗難自転車だらけだった。授業から授業へ行くたびに、ちょっと借りて、乗り捨てられた自転車がゴロゴロしていた。

 Wさんは、引っ越しの時、テレビと冷蔵庫と本棚を置いていってくれた。うれしかった。テレビは、映りが悪く、アンテナを手で握っていないと、鮮明に映らなかった。松田優作『探偵物語』テレビシリーズも、この映りの悪いテレビで見た。だから、当時このテレビで見た作品を後年見直すと、その鮮明さに感動してしまうのだった。冷蔵庫は、入れる食料が買えなかったので、冬は使わず、夏はクーラー代わりにしていた。本棚は、思い出の品として自宅で今でも大切に使っている。

 当時の岡山大学の建物は旧陸軍兵舎跡で、伴淳三郎・アチャコ主演の映画『二等兵物語 死んだら神様の巻』(1958年 松竹)のロケにも使われた。老朽化の激しい、火事にでもなれば一瞬で焼け落ちてしまうようなものだった。サークルボックスは床が今にも抜けそうなガタガタだったし、蛍光灯の数カ所はいつも切れていて、夜になると真っ暗になっているのはしょっちゅうだったし、極めつけは仕切りがないトイレ。小便は壁に向かってしていた。さすがに大便の部屋はあったけど、水洗でなくて汲み取り式。さすがに恐ろしくてそこに入ったことはなかった。アンモニア臭で、目が痛くなるほどの強烈な臭いだった。女子部員もその前を通っていたわけで、よくも我慢していたものだ。

 そんな強烈な異臭を放つサークルボックスには、様々なサークルが集まっていた。現在のように、大学側が鍵を持っていて、管理するようなこともなかったし、鍵をかけようにも、かけるドアもなかった。だから、ボックスに寝泊りする人もいれば、徹夜マージャンは当たり前、各部室からはレコードの音やらギターの音が朝まで鳴っているという、無法地帯だった。

 もちろんコンビニなんてあるはずもなく、徹夜マージャンで空腹になっても、食べる場所も買い出し出来る店もない。唯一の調理器具である電気ポットで、ゆで卵を作って空腹を満たした。

 たまに、ボックスの前にあった売店のうどんの自動販売機を利用した。広い構内にここ1カ所だけの貴重なものだった。だから、すぐに売り切れてしまう。運よく食べられるチャンスがあってもそのお金がない。百数十円をみんなで出し合い、1杯のうどんを、ジャンケンで勝った者から、「うどんの麺」「油揚げ」「汁」の順番で食べた。

 そんな貧乏人ばかりが集まった映画研究部だった。お金はなかったけど、時間だけはたっぷりあった。そんな愉快でムチャクチャばかりやっていた4年間だった。

 次回は、ボクが企画した「山根成之監督特集『さらば夏の光よ』『パーマネントブルー 真夏の恋』『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』」「70年代東映プログラムピクチュア傑作選『仁義の墓場』『女囚さそり701号 怨み節』」上映会と、ボクも出演した自主製作8ミリ映画『トイードルの白い森』の思い出について書きたいと思っています。

 ◇

 吉富 真一(よしとみ しんいち) 映画グッズ専門店「シネマコレクターズショップ映画の冒険」店主。中学生の時、アラン・ドロンとテレビの洋画劇場の魅力に取り付かれる。映画研究部に入りたくて、一浪して1977年岡山大学法文学部経済学科に入学。ビデオのない時代に、年間200-300本を鑑賞。1996年39歳で脱サラして、大学時代通いつめた岡山市奉還町で開業。1957年、総社市の総社東映と同じ町内生まれ。
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