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人生のリセットボタンは自分で押す 伊達公子さんの現役引退に学ぶ

人生のリセットボタンを自分で押す時が来る

 女子テニス界のレジェンド、伊達公子さんが2度目の現役引退を表明しました。1度目は1996年、世界ランキング4位になった直後というまさに絶頂期と言って良い時の引退でした。その後、現役を退き2008年37歳の時に再度現役復帰し現在46歳という年齢で再び現役引退を表明しました。彼女は自身のブログの中で、「再チャレンジにピリオドを打つ」と表現しています。

 数々の日本人女子テニス界の記録を塗り替えた伊達公子さん。世界ランキング4位になったちょうどその頃、岡山で伊達さんとテニスをする機会をいただきました。伊達さんのファーストネームが公子、私が公人なのでその時の番組のタイトルは「きみときみこのテニスでデート」というなんとも伊達さんにとって申し訳ないタイトルだったと記憶しています。岡山のテニスショップに2人で立ち寄り、そのあとにテニスコートでテニスをするという企画でした。

 日本人女子初の世界ランキング4位になったばかりで超多忙だったにもかかわらず、撮影時は嫌な顔一つせず、丁寧にインタビューに答えてくれたことを今でも鮮明に覚えています。私の一方的な思い出ですが、そんな縁もあって彼女の2度目の引退は少し寂しく、その決断(再チャレンジにピリオド)にどのように近づいていったのかがとても気になるのです。

 男子テニス界では、元世界ランキング1位のフェデラーが引退についてのインタビューで「その日は徐々に訪れて欲しいし、その時が来たら自分自身で感じたいと願っている。でも、あまりそのことは考えたくはない。もしけがなどをしてしまったら、必然とゆっくり近付いて来るけど、気持ち的にはある日突然プツンと切れてしまうかもしれない。誰にも分からないさ。それにテニスより一層大切なことが家族に訪れたりしたら、考えるかもしれない」と答えています。

 フェデラーは「その日(引退)は徐々に訪れて欲しいし」と語っています。その日とは本当に徐々に訪れるのでしょうか。

 その日とは、アスリートで言えば現役引退という意味になります。社会人だとどうでしょう。社会人の現役引退とはやはり退職、定年という言葉が一番しっくりきます。これまでの日本では多くの場合が終身雇用で定年まで働き、ある年齢が来たら会社を卒業することでした。定年=ピリオドという図式が成り立ちました。しかし、それで人生が終わるわけではありません。2つの10万時間のことを書いたことがあります。社会人時代の労働時間と定年後の自由時間がそれぞれ同じ10万時あるという考え方のことです。定年後も元気な限り人生は続くのです。今回、伊達さんはピリオドという言葉を使いましたが、彼女のような世界の頂点でしのぎを削った人だからこその表現だと思います。ただし、伊達さんのこれからのキャリアが終わるわけではなく、きっとより一層充実した素晴らしいものになると思っています。だからこそ、社会人用には、人生のリセットという言葉に置き換えてはどうかと私は思ったのです。会社人生にピリオドではなく、会社人生をリセットする。新しく生まれ変われるのです。

 経営学の中には「組織の中の人間行動」を研究する分野があります。人は何を基準に、どんな理由で決断を下し、その決断した方向にいかに人生の舵をきるのか。人生の節目について研究する分野です。引き際や、引退時の心理、もう少しさらに一般化すれば、キャリアの節目の心理に興味を持ち、それを研究することで、そのような時期を過ごす人のキャリア課題、その支援の仕方に関心を持つ人々の役に立ててればという研究分野です。

 私はかつて男子プロゴルファーのキャリア・トランジションに関する研究をしました。いつ、どんな理由で、競技者から引退するのか、それともしないのか。アスリートにとって最大のテーマである、引退という、彼らの人生最大のリセットボタンは誰が、どのような経緯で押すのか。それとも押さないのか、そんな研究でした。

 男子プロゴルファーの場合は、基本的には引退はないという結論でした。プロゴルファーは死ぬまでプロゴルファーなんですね。プロゴルファーにピリオドは存在しないのです。ピリオドの代わりにリセットする時期があるということです。プロゴルファーの場合はツアー(賞金を獲得するための大会)に出るか出ないかで多くのプロゴルファーがあがき、もがいています。そのもがきの期間は平均で3年でした。このままでいいのか。もう自分には無理なんじゃないのかと考える期間が3年だったのです。これは、社会人でも同じかもしれませんね。アナウンサーになりたくてテレビ局に入社したのに、営業にまわされた。銀行に入社して海外とのトレード担当になりたかったのに、生涯人事だった―なんてことはざらにありますね。そんな時、皆さんはどう対処しますか。転職というリセットボタンを押しますか。押すまでにどのくらい時間が必要ですか。

 私は、人が社会人になったら大まかに3つの種類の人たちに大きくわけることができると考えています。(1)なりたい自分(職業について)になって、いつまでもその世界で頑張る。(2)なりたい自分になれそうもないので、一度入った世界から抜け出し、新しい分野にチャレンジする。転職する。(3)なりたい自分にはなれないが、心に折り合いをつけてある程度我慢してその組織で勤め上げる。定年まで頑張る。この3種類です。

 この分け方で見ると、アスリートの皆さんは(1)の分類になると思います。なりたいテニスプレーヤーになって、世界で活躍する。なかなか誰にでもできることはないですよね。さらに、素晴らしい成績をおさめた人だからこそ、現役にこだわりたいという気持ちは強いものだと思います。Jリーグ現役最年長のサッカー選手、三浦知良選手は引退についてのインタビューで、「夢から覚めたくないんだよ」と言っていました。現役Jリーガーの世界は彼にとって夢の世界なんですね。それほど、離れがたいその人にとっての心の拠り所となっているものなんですね。

 今回の伊達さんの引退は、私は直接お話ししていないので、本当のところはわかりませんが、引退への決断、人生のリセットボタンを押すまでには、私たちの想像を超える苦しみや、葛藤、寂しさがあったのではないかと察します。だからこそ伊達さんは、ピリオドという言葉を選んだんだろうと思います。

 この発表に至るまでに、そこには多分ですが、そのことを相談できる誰か、これまで支えてきてくれたメンターと呼べる人がいた。だからこそ、自ら引退を表明できたのではないかと私は推測しています。プロゴルファーの研究においても、やはり心の支えになる家族やメンターの存在の大きさについて多くのプロゴルファーがその重要性について語っていました。フェデラーも引退のリセッットボタンを押す決断をする前に家族に相談すると語っています。人生を歩む上で心を割って相談できるだれかを見つけることがとても大切なのです。それは、アスリートだけではなく社会人にとっても同じだと思います。

 そして人生のリセットボタンは、自分以外誰も押せないということです。今回の伊達さんは自身のブログでファンに発表しました。未練はあるかもしれませんが、健全に、自分の生き方を自分自身の方法で発表しているのです。ただリセットボタンは押したいけど勇気がない、そんな人が大半だろうと思います。しかし最も心配すべき人たちは、リセットボタンを押す力も残っていない人たちです。かつて松岡修造さんは伊達さんに向かって、「もう辞めなよ、人生終わっちゃうよ」と言っていたほど、それほど、伊達さんのテニスに対する姿勢が真面目で心配になるぐらい頑張る姿に、つい松岡さんもそういう表現をしてしまったんだろうと思います。

 燃え尽きて、誰にも相談できなくて自滅しては元も子もありません。身も心もズタズタになってからでは遅いのです。アスリートの世界でもかつての栄光とは真逆の世界に踏み込んでしまう人たちが多くいます。そういう人たちを見るとやはりメンターの存在の大きさを改めて考えてしまいます。あがき、悩む前に心を割って話せる人を見つける。自分のことのように考えて「辞めてもいいんだよ」と言ってくれる人を見つけておくこと。これこそがしっかりと人生のリセットボタンを自分の意思で押せる人になる秘訣なのかもしれません。

 リセットボタンを押す前に燃え尽きないでほしいのです。迷ったらリセットボタンを一度押してみたらいいんです。人生のピリオドではなく、リセットするのですから。全てが終わるわけではないのですから。人生は何度でもやり直せるのですから。

 ◇

多賀 公人(たが・きみと) コミュニケーションコンサルタント。瀬戸内海放送でアナウンサー兼プロデューサーとして28年務めた後、ユイ・コミュニケーション・ラボ(株)を設立。企業・団体を対象に映像を使ったコミュニケーション研修トレーナーや、商品PR・ブランド広報戦略のコンサルタントとして活躍中。現在も瀬戸内海放送や山陽放送でキャスター兼コメンテーターとしてレギュラー多数。プロゴルファー石川遼選手の「ハニカミ王子」の名付け親でもある。1963年玉野市生まれ。

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