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岡山県立記録資料館での発見

備南電気鉄道と三備電気鉄道の予想コース

大原孫三郎(有隣会提供)

備南電気鉄道と三備電気鉄道の予想コース

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 毎回、さも物知りのようにご託を並べる筆者だが、実は、いろいろな資料を元に文章を組み立てているにすぎない。明治時代の鉄道を実見している訳でももちろんない。糊口(ここう)を凌(しの)ぐために教員などしているが、周りの先生がたが大学院で本を読んで研究し、論文を書いていた頃筆者は、同僚のサラリーマンと管(くだ)を巻いて、会社の悪口、上司への不満を言い合っていた身だ。資料を探す術(すべ)を知らなければ、古文書を読む力も持ちあわせていない。

 こんな体たらくだから、資料探しもおぼつかない。理解も遅い。大学生の時、勉強しなかったことを後悔する毎日だ。それでも、鉄道資料の宝の山、岡山県立記録資料館で悪戦苦闘するのだが、やはり研究歴のある先生の何倍も時間がかかる。今日紹介する鉄道計画もその宝の山で見つけたものだ。

 大原孫三郎といえば倉敷紡績の二代目社長で、数々の事業を手がけ、大原美術館を創設したことで知られている。その大原には、伯備線の始点を倉敷に決めさせた功労者だとする説がある。そして大原ら11名は1923(大正12)年、鉄道大臣・仙石貢(せんごく・みつぐ)に備南電気鉄道の敷設免許を申請した。資本金500万円で、山陽線岡山駅から大元、妹尾、早島、倉敷、連島、玉島を経て山陽線金光駅までの約36キロメートルに、標準軌(1435ミリ)の電気鉄道を敷設する計画だ。山陽線は軌間1067ミリの狭軌鉄道で、蒸気機関車王国だった。そこに新幹線と同じレール幅の電気鉄道を、南回りで建設しようとしたのだ。

 備南電気鉄道は、既に敷設免許を持っていた倉敷鉄道倉敷町・茶屋町間、1923年11月22日に特許を受けた中備電気軌道本線大供・倉敷間と支線早島・天城間、さらには山陽線岡山・金光間、宇野線岡山・早島間と競合した。結局、1926(大正15)年3月18日、「大正十二年十一月八日附申請鐵道敷設ノ件廳届ケ難シ」と却下されてしまった。

 ところが大原らは、不認可が通達されたわずか2カ月後の5月28日、全く同じ計画を「三備電気鉄道」としてリベンジ申請した。当然のことながらまたもや却下されたのだが、その理由は「本出願線ハ省山陽線ニ全ク並行シ目下ノ交通状態ヨリ見テ敷設ノ必要ナキモノト被認ニ付伺案ノ通リ却下可然乎」というものだった。興味深いのは「運輸省公文書」に記された「三備電気鉄道ニヨル省線ノ打撃」だ。省線とは鉄道省が管轄する鉄道のことで、ここでは山陽線岡山・金光間を指すと思われる。1年間に受ける打撃は運賃14万3986円、乗客数80万5296人で、岡山市街地を通過する電気鉄道であることが山陽線よりも便利だと指摘されているのだ。

 つまり却下理由は、国の鉄道を保護することにあったようだ。大原以外の発起人には、大原が経営した中国民報社で重役を務めた柿原政一郎(かきはら・まさいちろう)や、倉敷紡績の重役や倉敷町長を歴任した原澄治(はら・すみじ)、金光教三代太郎の名前もある。中国民報社は山陽新聞の前身でもある。大原の事業眼の確かさを立証するような標準軌電気鉄道が実現していたら、岡山県南は阪神電車とJR、阪急電車が並走する大阪・神戸間さながらの様子を呈していたのだろうか。

 ◇

 小西伸彦(こにし・のぶひこ) 吉備国際大外国語学部外国学科准教授。専門は産業考古学と鉄道史学。著書に「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」「みまさか鉄道ものがたり」(ともに吉備人出版)など。1958年総社市生まれ。香川大経済学部卒。

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